中国,新疆ウイグル自治区焉耆(えんき)回族自治県の所在地名および盆地名。カラシャフルともいい,中国名は焉耆。この盆地は東部天山山脈の支脈カイドゥが北東にトゥルファンを界し,南西から南をボロハタンとクルクの両山脈で界され,西からユルドゥズ(カイドゥ)川がバグラシュ湖沼に注いでいる。古くはイリ・ユルドゥズ渓谷に拠った遊牧勢力との交渉地であり,また南東方へ楼蘭,ミーラーンに向かい,トゥルファンからクチャへ向かう交通路上の要地でもあった。《漢書》以来の正史では焉耆とされ,《法顕伝》などに焉夷,夷,烏夷,烏耆とされたのはア(エ)ルギーA(Ä)rgīを,また《大唐西域記》が阿耆尼としたのはアルギーナArgīña(Argñe,Argiya,Arkeñe,Ārśī)の対音といわれる。漢代から唐代までの王姓は竜。中国の西域経営において漢代に僮僕校尉,西域都護府下にあり,北魏では焉耆鎮,唐では安西都護府下の安西四鎮の一つであった。1906年にグリュンウェーデル,08年にスタイン,09年にオルデンブルグ,28年に黄文弼が考古学調査を行い,とくにスタインは焉耆県南西13kmの都城址バグダードシャフリを唐代焉耆都城に比定した。その西の山寄りに仏教寺院址が群集し,その北東山腹に小規模な石窟寺院が残る。寺址はドイツ隊がショルチュクShorchuk,ロシア隊がシクシムShikshimと命名し,100基以上にのぼる日乾煉瓦造の祠堂・仏塔など,小型のものから,1辺130mもの長方形建物がある。仏像は独特な様式の塑像に特色があり,型づくりで,細かい衣紋にホータン付近と共通性がみられる。絵画は中国画風な描線によるものが注意される。石窟は前後2堂式のキジル石窟などの形式に従っている。
執筆者:桑山 正進
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中国、新疆(しんきょう)ウイグル自治区、東部天山(てんざん)地方の南麓にある焉耆(えんき)回族自治県の鎮で、同自治県の政府所在地。中国人には漢代以来焉耆の名で知られ、西域(せいいき)北道の要衝を占めたオアシス都市である。東のトゥルファン地方と西のクチャ地方を結ぶだけでなく、北は天山北路の草原・遊牧地帯と、南ないし南東は西域南道のミーラン、楼蘭(ろうらん)、さらには敦煌(とんこう)とも通じている。
漢代から唐代まで焉耆国として独立を保っていたころの先住民は、インド・ヨーロッパ系のいわゆるトカラ人で、彼らはおもにオアシス農業と隊商貿易に従事していた。古来、仏教とくに小乗系の説一切有部(せついっさいうぶ)の信仰が盛んで、ショルチュク遺跡はかつてのトカラ仏教の中心地であった。紀元前2世紀に匈奴(きょうど)の間接支配を受けたことがあるが、その後も前漢、後漢(ごかん)、鮮卑(せんぴ)、柔然(じゅうぜん)、突厥(とっけつ)、唐など、周辺の大勢力の圧力を被り続けた。9世紀後半に西ウイグル王国の支配下に入ってから、住民のトルコ化が進んだ。13世紀にモンゴル帝国が台頭し、この地がチャガタイ・ハン国に含まれてから、住民はイスラム化した。漢名の焉耆は原語のアルギArgi、アルクArkないしはそれに近い音を写したもの。西ウイグル王国時代から元代にはスルミSölmi、明(みん)代にはチャリッシュČališとよばれ、カラシャールは清(しん)代以降の呼称である。
[森安孝夫 2018年1月19日]
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