出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
Sponserd by 
安西都護府
あんせいとごふ
中国、唐の辺境統治機関、六都護府の一つ。安西四鎮(しちん)とよばれる鎮守軍を擁し、パミール東西に設置した羈縻(きび)都督府・州を統轄した。640年トゥルファン盆地に設置され、続いて亀茲(きじ)に進出した。のち、吐蕃(とばん)などの遊牧勢力の攻勢下に存廃を繰り返したが、唐は長官の都護に節度使(せつどし)を兼ねさせ軍鎮としても充実を図り、8世紀末ごろまで存続させた。北庭(ほくてい)都護府とともに唐の西域経営のもっとも発展した形態を示し、歴史的意義は大きい。
[白須浄眞]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
Sponserd by 
安西都護府
あんせいとごふ
An-xi du-hu-fu; An-hsi tu-hu-fu
中国,唐代の6都護府の一つ。唐が貞観 14 (640) 年に高昌国を滅ぼして初めておかれ,同 22年,亀茲 (きじ。クチャ) を征服してここに移された。そののち勢力を強めた吐蕃 (とばん) にしばしば占領され,また安史の乱によって本国との連絡を断たれたりしたが,なお名目を保ち,貞元6 (790) 年ついに吐蕃に滅ぼされた。安西四鎮を管下におき,九十余の羈縻州 (きびしゅう) を統轄した。オアシス諸国の管理と貿易路の保全,遊牧勢力の侵入防止が設置の目的であった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 
安西都護府(あんせいとごふ)
唐は640年高昌国を滅ぼすと,ここに西州と併せて安西都護府を設置した。早くも658年には,亀茲(きじ)(クチャ)に移されるとともに,安西大都護府となった。いわゆる6都護府の一つとして安西四鎮を統轄し,西域諸国すなわちタリム盆地のオアシス都市国家の管理にあたらせ,東西貿易路の確保に努めるとともに,遊牧民の侵入に備えた。8世紀前半には,安西節度使に代わられ,有名無実の存在となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
Sponserd by 
安西都護府
あんせいとごふ
唐代に安西四鎮を統轄し,タリム盆地の覇権を維持するために置かれた,6都護府の1つ
オアシス諸国の管理,西方交通・貿易の保護,北方遊牧勢力の防衛にあたった。唐は640年高昌 (こうしよう) を滅ぼしてここに安西都護府を置き,658年西突厥 (とつけつ) を鎮定,クチャ(亀玆 (きじ) )に移したが,突騎施 (とつきし) (トルコ民族の一派)や吐蕃 (とばん) の圧力を受けた。8世紀末には,安史の乱や吐蕃の河西占領により,本国との連絡が断たれ,790年ごろ吐蕃に滅ぼされた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
Sponserd by 
世界大百科事典(旧版)内の安西都護府の言及
【クチャ】より
…また管絃が名高く,唐の礼楽の一つに〈亀茲楽〉として採用された。北方の天山山中の牧草地ユルドゥズを基地とした西突厥と6世紀末から交渉をもち,また658‐790年には唐の安西都護府が設置された。9世紀中ごろウイグルがトゥルファンに進出すると,その勢力はクチャに及び,13世紀初めまで支配をうけた。…
【唐】より
…〈天可汗〉とは,可汗の上に立つ君主という意味であり,唐の天子は中国の天子であると同時に異民族の首長でもあることが自他ともに認められたのである([ハーン])。東突厥を平定した唐は,[吐谷渾](とよくこん)を破り,またトゥルファン(吐魯番)地方に繁栄を続けていた漢人の植民国家である[高昌]を640年(貞観14)に滅ぼして西州と名づける直轄領とし,この地に安西都護府をおいた。ついでクチャ(亀茲),カラシャール(焉耆)を従え,カシュガル(喀什噶爾),ホータン(于闐)も帰順させ,安西都護府をクチャに西遷させたのである。…
※「安西都護府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
Sponserd by 