新撰 芸能人物事典 明治~平成 「宮田東峰」の解説
宮田 東峰
ミヤタ トウホウ
- 職業
- ハーモニカ奏者 作曲家
- 肩書
- ミヤタ・ハーモニカ楽団主宰
- 本名
- 宮田 孝三郎(ミヤタ コウザブロウ)
- 別名
- 旧号=秋景
- 生年月日
- 明治31年 3月24日
- 出生地
- 群馬県 前橋市
- 学歴
- 中央大学経済学科中退
- 経歴
- 三男二女の末っ子として生まれる。生まれた当日に事業家だった父を失い、6歳の時に母と2人で母の実家に移ったが間もなく母がインフルエンザで急逝したため、離れて暮らしていた兄姉たちに引き取られた。寺部小学校5年の時に新聞記者をしていたドイツ帰りの義兄からおみやげにホーナー社製のハーモニカを貰ったことがきっかけでハーモニカを吹き始め、マンドリンを弾いていた次兄・信義から楽典を教わった。6年の3学期に氷川尋常小学校に引っ越すと、学校の裏にイタリア人声楽家のアドルフォ・サルコリーが住んでおり、夕方になるとマンドリンを弾き始めるので、子ども心に競争心を起こして家の前でマンドリンに対抗するようにハーモニカを吹いた。これが縁で自宅に招き入れられて可愛がられ、その門下だった三浦環、原信子、関屋敏子とも交流を持つようになった。小学校卒業後は長兄が経営する店を手伝っていたが、大正7年中央大学経済学部に在学する傍ら、東京毎夕新聞に見習記者兼校正係として入社。暇さえあればハーモニカを吹いて社内でうるさがられていたが、学芸部に在籍していた吉川英治はいつも“おい、例の賑やかなところを頼むよ”とかばってくれたという。同年ハーモニカ演奏による「カルメン」「ドナウ河の漣」を吹き込み、また最初のハーモニカ合奏団の一つである東京ハーモニカ・ソサエティーを結成。10年「愉快な鍛冶屋」「双頭の鷲の下に」のハーモニカ合奏を吹き込んで大ヒットとなった。12年監修したハーモニカが発売されるのに合わせて、その品質を保証するために自分の顔をハーモニカに貼り付けることにして、自分の顔を商標登録。13年トンボ楽器と正式に提携し、その顔はミヤタブランドのハーモニカの“顔”となり、全国津々浦々にその名前と顔を印象づけることになった。昭和27年には齢を経た顔に商標を再登録している。この間、関東大震災が起こると、芝公園や上野公園など都内の各地を廻ってハーモニカを演奏し、被災者を励ました。大正13年東京ハーモニカ・ソサエティーをミヤタ・ハーモニカ・バンドに改称するとともに日本コロムビアに入社。昭和2年日本ハーモニカ連盟設立に参画、またハーモニカの普及・改良・編曲・指揮・作曲などに生涯をかけ、“ハーモニカの父”と呼ばれた。戦後はいち早くミヤタ・ハーモニカ楽団を再建し、放送や公演に努める一方、28年コロムビア・ミヤタ歌謡教室を開設。歌謡科の出身者に島倉千代子らがいる。代表曲に島倉「十国峠の白い花」や、「輝く東京オリンピック」などがある。著書に「ハーモニカ教本」「ミヤタハーモニカ独習」「音楽に生きる」や、自伝「みんな仲間だ」がある。号の東峰は祖父の俳号を流用したもの。
- 受賞
- 藍綬褒章〔昭和35年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和43年〕,勲三等瑞宝章〔昭和49年〕
- 没年月日
- 昭和61年 1月31日 (1986年)
- 家族
- 兄=宮田 信義(東京マンドリン宮田楽団会長),息子=宮田 英夫(ジャズ・フルート奏者)
- 親族
- 甥=宮田 俊一郎(マンドリン奏者)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報