家元制度(読み)いえもとせいど

日本大百科全書(ニッポニカ) 「家元制度」の意味・わかりやすい解説

家元制度
いえもとせいど

技能文化における一流一派の統宰者を家元という。その家元が免許状発行権を独占し、壮大な家元文化社会を構成したものを家元制度という。家元ということばの初見は、法隆寺鵤(いかるが)文庫蔵『年会日記』正徳(しょうとく)3年(1713)7月26日条によると、1689年(元禄2)で、法隆寺、東大寺薬師寺などへ成人後僧となる少年を入寺させる権利を所持する家を意味した。また、先祖の墓を守る本家とか、武芸根源の本家、商家の根源本家などにも家元とよばれるものがあるが、史上重要なのは芸能諸流の家元である。この芸能家元の初見は、1757年(宝暦7)に成る馬場文耕(ぶんこう)の著『近世江都著聞集(こうとちょもんじゅう)』である。しかしその実体としての起源は平安時代にあり、公家(くげ)・社寺などに属した雅楽の家々、二条家・冷泉(れいぜい)家など歌の家、紀伝・文章(もんじょう)・陰陽道(おんみょうどう)の家などができた。鎌倉時代には、弓・馬の小笠原(おがさわら)家、衣紋(えもん)の高倉家などが成立、南北朝時代から戦国動乱期にかけて、能狂言の家や、浄土真宗本願寺、ならびに、貴族社会に香、書、歌、神楽(かぐら)、郢曲(えいきょく)、琵琶(びわ)、和琴(わごん)、蹴鞠(けまり)、鷹(たか)、神祇(じんぎ)、装束(しょうぞく)、庖丁(ほうちょう)、卜筮(ぼくぜい)などの家が確立して、秘伝の免許体系を整え、盛んに伝授するに至った。17世紀初頭に全国城下町に多数の武家貴族が創出され、これが江戸に参勤することなどにより、この大人口の新興武家貴族が、武芸ならびに遊芸を盛んに稽古(けいこ)するようになり、武芸には弓、馬のほかに砲術、剣術、槍術(そうじゅつ)、忍術、柔術その他多くの武芸の家元が成立した。また、香、茶、花なども前代未聞(みもん)の隆盛をみるに至り、茶道、香道、花道などのことばが用いられるようになり、日本の芸道がこの時代に成立するに至るのである。

 18世紀を迎え、三都を中心として、さらに全国の都市に富裕町人が多数成立すると、この町人たちが家元の遊芸文化に殺到して、盛んに茶、花、俳諧(はいかい)、音曲などを演じ、その人口は莫大(ばくだい)なものになっていった。こういう現象が成立するようになって、町人社会の稽古事(けいこごと)が隆盛化し、免許状を家元から直接伝授されることを希望する者が増大することとなり、やがて、家元が免許権を独占し、古代以来の免状伝授法に革命現象がおこることとなった。つまり、免許皆伝を受けた者は自分の高弟にさらに免許皆伝する権利をも与えられていた古代以来の完全相伝形式が否定され、町師匠(名取(なとり)師匠)は教授権のみを与えられ、いっさいの免許権は家元が独占するようになったのである。これが家元制度で、18世紀中ごろから町人社会に行われた茶道、花道、香道、音曲などの諸流に盛んに普及し、19世紀に入ると、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、笛などの雅楽三管の家々まで家元制度を結成するに至った。さらに邦楽諸流をはじめ、あらゆる遊芸文化社会に大小さまざまの家元制度が出現した。

 明治以降もこの体制はほとんど変化なく存続したが、1955年(昭和30)ころまでは、これらの家元制度の大人口はほとんどすべて男性によって構成されていた。それが昭和30年代を迎えると、あらゆる芸能諸流に女性が殺到し、家元制度文化社会はたちまち女性に独占される状態となり、現代では、茶道、花道はいうまでもなく、能楽の謡(うたい)や演能にまで女性の進出は目覚ましいものがある。日本には、家元といわなくても、その実体が家元制度に酷似した講道館(柔道)とか、日本棋院(囲碁)、その他多くの擬似家元制度があり、これらをも含め家元制度は、日本独特の文化社会をつくりだしている。

[西山松之助]

『川島武宜著『家元制度』(『イデオロギーとしての家族制度』所収・1957・岩波書店)』『西山松之助著『家元の研究』(1959・校倉書房)』『西山松之助著『現代の家元』(1962・弘文堂)』『西山松之助著『家元制の展開』(1983・吉川弘文館)』『西山松之助著『家元ものがたり』(中公新書)』

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世界大百科事典(旧版)内の家元制度の言及

【家元】より

…家元からは段階的に高度化する免許が与えられ,弟子は免許によってさらに弟子をとって教授する権限が分与される。こうして中間教授層が生まれ,ピラミッド型の家元制度ができる。しかし免許状は家元以外からは発行できないのが一般的で,いかに高弟であっても家元に成り代わることは認められない。…

【いけばな】より

…生花がその花形(かぎよう)を明確に定めるのは文化・文政期(1804‐30)であって,陰陽五行説や地水火風空の五大を説いて花形を形成しようとした松月堂古流からはじまって,やがて天地人三才格による花形の定めが一般化し,円形の天に内接する正方形の地の図形を,さらに半切した三角形(鱗形)を求め,天枝・地枝・人枝の3本の役枝によって花形を定める,当時として最も合理的な未生斎一甫の考え方によって,生花はその花形を完成したものとみてよい。このことは幕府の倫理強化策とも相まって,生花を婦女子の修徳の習い事として庶民のあいだに浸透させることともなり,多数の社中を擁する流派が成立し組織としての家元制度の基盤が形づくられることとなった。生花の花形が定型化することを嫌った人々のなかでも文人墨客たちは,文化・文政期ころより流行した煎茶道を愛好し,中国の花書《瓶史》の影響を受けて,文人花(ぶんじんばな)を楽しみ,抛入花の中での新しい分野をつくりあげた。…

【秘伝】より

…つまり,かつてブルーノ・タウトが日本建築の〈釣合い〉感覚を論じて,〈様式・形式の世界あるいは基本的定型を数世紀にわたって追究するという連続的な仕事によって成就される〉とのべたような,技術に関する基本的観念が人々の間に生まれ定着するのである。秘伝形式を核とする教育関係と家元制度は大なり小なりこの観念によって支持され,その実態がこの観念を再生強化してきたといえる。また,結果よりも過程をたいせつにする,いわば稽古の思想とよぶべき考え方もこれに属するであろう。…

【文化文政時代】より

…むろん園芸に限らず,江戸の大衆はなんらかの遊芸にたずさわっており,しかも分野によっては早くも女性の参加がみられた。このような遊芸人口の増大が,それらに技術を教える町の師匠たちの生活を支え,さらにそれらを組織する機構としての18世紀に整備された家元制度をいっそう充実させる結果をもたらした。
[地方との関係]
 化政文化の都市性を強調するあまりに,それを都市,なかんずく江戸の事象だけで論じるのは片手落ちであろう。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」