家永三郎(読み)イエナガサブロウ

デジタル大辞泉 「家永三郎」の意味・読み・例文・類語

いえなが‐さぶろう〔いへながサブラウ〕【家永三郎】

[1913~2002]歴史学者。愛知の生まれ。東京教育大・中央大教授。古代から近代にいたる日本思想史を研究。三次にわたる教科書裁判の原告としても知られる。著書に「日本思想史に於ける否定の論理の発達」など。「上代倭絵年表」「上代倭絵全史」で学士院恩賜賞受賞

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改訂新版 世界大百科事典 「家永三郎」の意味・わかりやすい解説

家永三郎 (いえながさぶろう)
生没年:1913-2002(大正2-平成14)

日本思想史研究者。教科書検定違憲訴訟の原告。名古屋市生れ。東京帝国大学文学部国史学科卒業。東京教育大学名誉教授。文学博士。1937年東京帝国大学卒業後,同大学史料編纂所の嘱託となり,《大日本史料》の編纂に従事しつつ古代・中世の仏教思想史を研究,40年《日本思想史に於ける否定の論理の発達》を刊行以後,仏教思想史,倭絵に関する研究を行い,46年《上代倭絵全史》を刊行し,48年に日本学士院恩賜賞を受賞。この間,1941年新潟高等学校教授となり,この頃から日本近代史の研究も始める。43年新潟高校を辞任し帰京,翌年東京高等師範学校教授となる。日本の敗戦を大きな喜びをもって迎えたが,直後の民主化に違和感をもった。46年に戦後の国定日本史教科書《くにのあゆみ》の古代史部分を執筆した。マルクス主義者を中心とした歴史家から多くの批判を受けたが,石器時代から始まる古代史部分の執筆の意義を強調した。49年新制大学の発足に際し,東京教育大学教授となる。戦後はもっぱら日本近代思想史研究に専念し,《日本文化史》(1959),《植木枝盛研究》(1960),《美濃部達吉の思想史的研究》(1964),《津田左右吉の思想史的研究》(1972)などを刊行。1950年頃からの逆コースのなかで破壊活動防止法制定反対運動に参加したことを契機に,歴史教育改悪反対声明,教育二法案反対声明を呼びかけ,東京教育大学文学部教授会の民主的改革に取り組むなど実践活動に参加するようになった。1952年に高等学校日本史教科書《新日本史》を執筆,検定で不合格となる。政権政党の教科書攻撃や教育行政の反動化のなかで強化される教科書検定に対して,65年に教科書検定は違憲違法であるとする教科書検定違憲訴訟を提起。検定行政を違憲違法とする判決杉本判決〉を勝ち取った。この過程で,《司法権独立の歴史的考察》(1962)や《太平洋戦争》(1968)などの研究を発表した。また,東京教育大学の筑波移転に伴う大学の非民主的運営を批判し,筑波移転反対闘争の先頭に立った。このように実践活動と研究を一体化させ,抵抗権や憲法思想,文化史,女性史,戦争史などの分野で優れた研究業績を残した。1977年東京教育大学を停年退職し,教科書検定違憲訴訟は97年に終結した。《家永三郎集》全16巻(1997-99),および自伝《一歴史学者の歩み》(2003)がある。
教科書裁判
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「家永三郎」の解説

家永 三郎
イエナガ サブロウ

昭和・平成期の歴史学者 東京教育大学名誉教授。



生年
大正2(1913)年9月3日

没年
平成14(2002)年11月29日

出生地
愛知県名古屋市

学歴〔年〕
東京帝国大学文学部国史学科〔昭和12年〕卒

学位〔年〕
文学博士〔昭和25年〕

主な受賞名〔年〕
日本学士院賞恩賜賞〔昭和23年〕「上代倭絵年表」「上代倭絵全史」

経歴
新潟高校教授を経て、昭和19年東京高等師範教授、24年東京教育大学(現・筑波大学)教授。52年定年退官後、中央大学教授。59年退職。実証主義の歴史家として知られ、21年「上代倭絵全史」をはじめ「上代仏教思想史研究」「日本道徳思想史」などの業績がある。占領初期には連合国軍総司令部(GHQ)の指導で進められた国定教科書「くにのあゆみ」編集委員を務めた。27年から高校教科書「新日本史」(三省堂)を執筆。37年度検定で不合格となり、38年度検定では大幅修正で合格となったため、教科書検定を“表現の自由の侵害”“教育への国家の干渉”として憲法違反を主張し、40年国家賠償請求訴訟(第1次訴訟)を起こす。42年には不合格取り消し措置に対し第2次訴訟を、59年には“’80年代検定”を対象に第3次訴訟を起こす(家永教科書訴訟)。一連の裁判で1次訴訟は最高裁で上告却下となり敗訴が確定。2次訴訟は1審・2審勝訴、3審で差し戻され、東京高裁で請求却下が確定。3次訴訟は検定制度自体は合憲としながらも1審で1ケ所、控訴審理で3ケ所、上告審で4ケ所の検定意見の違法が認められ、“一部勝訴”が確定し、平成9年8月、32年に及ぶ戦後最大級の教育裁判が終結した。これを機に教科書の執筆から退くが、歴史教育の現状に与えた影響は大きく、文部省(当時)は検定制度見直しを迫られ、簡素化を中心にした平成元年の制度の全面改定につながった。他の著書に「日本思想史に於ける否定の論理の発達」「日本近代憲法思想史研究」「植木枝盛研究」「教科書裁判」「太平洋戦争」「戦争責任」、「一歴史学者の歩み」、小説「真城子」、戯曲「新編上宮太子未来記」などがある。訴訟関係の記録は全て東京都立大学に寄贈し、保存されている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「家永三郎」の意味・わかりやすい解説

家永三郎
いえながさぶろう

[生]1913.9.3. 愛知
[没]2002.11.29. 東京
歴史学者。1937年東京帝国大学を卒業。新潟高校教授などを経て,1949~78年東京教育大学教授,1978~84年中央大学教授。初め実証主義の史家として知られた。やまと絵の研究で,1948年日本学士院恩賜賞を受賞。また日本思想史研究の分野でも,鎌倉仏教・近代憲法思想を中心に業績を残した。1962年度の文部省検定において,自著の高等学校用社会科教科書『新日本史』が不合格となり,この処分などを不服として,1965年国を相手に国家賠償請求訴訟(第1次),1967年検定処分取り消し請求訴訟(第2次),1984年には再び国家賠償請求訴訟(第3次)を起こした。第2次訴訟は 1989年6月,東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下され,第1次訴訟も 1993年3月の最高裁判所判決で原告全面敗訴の 2審が支持された。しかし第3次訴訟では,1993年の 2審で 3ヵ所,さらに 1997年の最高裁では 1ヵ所の書き換え処分が違法とされ,国側に 40万円の支払いを命ずる判決が出て,一連の教科書裁判は終結した。著書『上代倭絵全史』(1946),『日本思想史に於ける否定の論理の発達』(1969),『日本道徳思想史』(1960),『戦争責任』(1985)など多数。

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百科事典マイペディア 「家永三郎」の意味・わかりやすい解説

家永三郎【いえながさぶろう】

日本史学者。愛知県生れ。東京大学国史学科卒業。1941年新潟高等学校教授,1944年東京高等師範学校教授,1949年‐1977年東京教育大学文学部教授(のち名誉教授),1978年‐1984年中央大学法学部教授。主著に《日本思想史に於ける否定の論理の発達》(1940年),《一歴史学者の歩み》(1967年),《太平洋戦争》(1968年)などがある。《上代倭絵年表》(1942年)と《上代倭絵全史》(1946年)で1948年に日本学士院賞恩賜賞を受賞した。執筆した高校用教科書《新日本史》(三省堂)が,国の教科書検定制度によって,1963年に不合格,1964年に修正意見付き合格となったことを不服として教科書裁判を起こし,第1次訴訟は敗訴,第2次訴訟は打切り(敗訴),第3次訴訟は一部勝訴となり,検定制度の透明化・簡素化の契機をつくった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「家永三郎」の解説

家永三郎 いえなが-さぶろう

1913-2002 昭和-平成時代の日本史学者。
大正2年9月3日生まれ。昭和12年東京帝大史料編纂(へんさん)所嘱託。旧制新潟高教授をへて,19年東京高師教授から24年東京教育大教授。定年退官後,中央大教授。23年「上代倭絵(やまとえ)年表」「上代倭絵全史」で学士院恩賜賞。40年から32年にわたり教科書検定裁判の原告としてたたかい,平成9年一部勝訴が確定した。平成14年11月29日死去。89歳。愛知県出身。東京帝大卒。著作に「日本思想史に於ける否定の論理の発達」「太平洋戦争」など。

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367日誕生日大事典 「家永三郎」の解説

家永 三郎 (いえなが さぶろう)

生年月日:1913年9月3日
昭和時代;平成時代の歴史学者
2002年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の家永三郎の言及

【教科書裁判】より

…歴史学者家永三郎(当時,東京教育大学教授)が,自著の高等学校社会科用歴史教科書《新日本史》(三省堂)に対する文部大臣の検定処分を違憲・違法であるとして国または文部大臣を相手どって起こした三つの訴訟のこと。 家永は1965年,〈現行教科書検定制度は違憲・違法である〉として,国を相手どり国家賠償を求める教科書検定違憲訴訟を東京地方裁判所に提起した(第1次訴訟)。…

【検閲】より

…(2)教科書検定(教科書検定制度) 日本の小・中学校および高校は,文部大臣の検定を経た教科書または文部省著作の教科書を使用しなければならないことになっている。家永三郎は,その高校用教科書《新日本史》が不合格(1963),修正意見付合格(1964)となったことを不服として,国家賠償請求訴訟(第1次訴訟),および不合格処分取消訴訟(第2次訴訟)を起こした。1970年東京地裁は第2次訴訟につき,検定制度自体は違憲とはいえないが,本件処分は執筆者の思想内容を事前に審査する検閲にあたると判断した。…

【歴史教育】より

…1977‐78年に改訂された小・中・高校の学習指導要領では,歴史教育を含め社会科の目標は〈公民的資質の育成〉で統一された。また教科書の検定でつねに問題が集中するのも歴史教科書であり,家永三郎は自著の高校日本史教科書に対する検定を違憲・違法として1965年,67年さらに84年と,3次にわたり訴訟を提起した(教科書裁判)。1982年には,文部省による歴史教科書検定が近代のアジア史,とくに日本によるアジア諸国への侵略の歴史を歪曲しているとして,中国,韓国などアジア諸国から批判を受け,日本の歴史教育と歴史教科書検定とは国際的に注目の的となった。…

※「家永三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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