富本豊前太夫(読み)トミモト ブゼンダユウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「富本豊前太夫」の解説

富本 豊前太夫(4代目)
トミモト ブゼンダユウ


職業
富本節太夫

肩書
富本浄瑠璃家元

本名
富本 保太郎

別名
初名=富本 豊紫太夫,後名=富本 豊洲(トミモト ホウシュウ),受領号=富本 豊前掾(4代目)(トミモト ブゼンノジョウ)

生年月日
文政13年 6月16日

出生地
江戸(東京都)

経歴
弘化2年富本豊紫太夫と名乗り中村座で初舞台。嘉永5年4代目富本豊前太夫を襲名。明治3年豊洲と改名。8年実子の玉次郎に家元を譲り、13年7月4代目豊前掾を受領したが、同年8月5代目が早世したため再び6代目家元に復帰した。凋落傾向にあった富本流の中興の名人といわれた。

没年月日
明治22年 9月7日 (1889年)

家族
父=富本 豊前太夫(3代目),子=富本 豊前太夫(5代目)


富本 豊前太夫(5代目)
トミモト ブゼンダユウ


職業
富本節太夫

肩書
富本節浄瑠璃家元

旧名・旧姓
富本 玉次郎

生年月日
文久1年

出生地
江戸(東京都)

経歴
4代目富本豊前太夫の子で、明治8年5代目を襲名。9年春、喜昇座出演、同6月新富座で「三社祭礼巴提灯」を務めて評判となった。12年久松座(のちの明治座)で「鶴歳亀齢栄久松(ちよよろずよさかえのひさまつ)」「常磐の松」などを語った。

没年月日
明治13年 8月23日 (1880年)

家族
父=富本 豊前太夫(4代目)


富本 豊前太夫(7代目)
トミモト ブゼンダユウ


職業
富本節太夫

肩書
富本節浄瑠璃家元

本名
榎本 晴久

別名
初名=富本 豊志太夫

生年月日
明治23年

経歴
父が6代目豊前太夫と縁故関係があり、名見崎得寿斎世話で、明治31年9歳のとき家元を相続、豊志太夫を名乗った。42年6月7代目豊前太夫を襲名。ただし世数に入れない数え方もある。

没年月日
?

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

朝日日本歴史人物事典 「富本豊前太夫」の解説

富本豊前太夫(2代)

没年:文政5.7.17(1822.9.2)
生年:宝暦4(1754)
江戸中・後期,富本節の太夫。富本豊前掾 の子。初名富本午之助。幼少時に父親を亡くしたが,明和3(1766)年7月中村座で「文月笹一夜 下の巻」に出勤。初代斎宮太夫こと清水権次郎を後見にしての初舞台であった。7年に2代目豊志太夫と改名し,本格的に劇場での活動を始める。さらに安永6(1777)年1月に豊前太夫を襲名。同じころ,蔦屋重三郎が富本節の正本出版に乗り出したこともあって,富本節は初代豊前掾没後,その高弟富本大和太夫に頼っていた混乱期をみごとに脱し,隆盛への一歩を踏み出した。2代目豊前太夫の天性の美声が富本節流行の主たる理由であったことも間違いなく,その風貌から「馬づら豊前」の名で親しまれた。その肖像は当時の芝居絵にもみられる。文化14(1817)年10月受領して富本豊前掾藤原敬政となる。9年に清元節が分派・独立してから富本節は衰退したというが,2代目豊前太夫が没するまでは,富本節は常磐津節とともに江戸の劇場音楽の中枢を成していた。

(根岸正海)


富本豊前太夫(4代)

没年:明治22.9.7(1889)
生年:天保1.6.16(1830.8.4)
江戸後期・明治初期の富本節の太夫。3代目豊前太夫の長男で名は保太郎。初名豊紫太夫。嘉永5(1852)年1月,4代目を襲名,明治3(1870)年に豊洲,13年に豊前掾。すでに清元節に敗北したかたちの富本節であったが,このころ山田流箏曲に採り入れられた。4代目の実子,5代目豊前太夫が早世したため,6代目として4代目が復帰した。

(根岸正海)


富本豊前太夫(3代)

没年:明治9.5.2(1876)
生年:文化2(1805)
江戸後期,富本節の太夫。2代目豊前太夫の養子。初名2代目午之助。文政2(1819)年に養子となり,5年初舞台。11年に3代目豊前太夫,嘉永4(1851)年には受領して富本豊前掾藤原秀広,さらに翌年に豊前大掾となる。安政6(1859)年に隠居して豊珠翁と改名。3代目豊前太夫以降,富本節は清元節におされ,衰退の一途をたどった。

(根岸正海)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「富本豊前太夫」の解説

富本 豊前太夫(7代目)
トミモト ブゼンダユウ

明治期の富本節太夫 富本節浄瑠璃家元。



生年
明治23(1890)年

没年
(没年不詳)

本名
榎本 晴久

別名
初名=富本 豊志太夫

経歴
父が6代目豊前太夫と縁故関係があり、名見崎得寿斎の世話で、明治31年9歳のとき家元を相続、豊志太夫を名のった。42年6月7代目豊前太夫を襲名。ただし世数に入れない数え方もある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富本豊前太夫」の解説

富本豊前太夫(初代) とみもと-ぶぜんだゆう

1716-1764 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
享保(きょうほう)元年生まれ。宮古路豊後掾(ぶんごのじょう)の門人で宮古路品太夫,ついで常磐津(ときわず)小文字太夫(初代)を名のる。寛延元年富本豊志(とよし)太夫と改名して,富本節をおこす。翌年受領して富本豊前掾(初代)となり,江戸三座に出演。宝暦10年筑前掾(ちくぜんのじょう)。子が2代豊前太夫を称したため,豊前太夫の初代とされる。明和元年10月22日死去。49歳。本名は福田弾司(だんじ)。

富本豊前太夫(4代) とみもと-ぶぜんだゆう

1830-1889 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
文政13年6月16日生まれ。富本節の3代富本豊前太夫の長男。初名は豊紫(とよし)太夫。嘉永(かえい)5年4代を襲名,豊洲(ほうしゅう)をへて明治13年受領して4代富本豊前掾(ぶぜんのじょう)。実子の5代が早世したため6代として復帰。中興の祖といわれた。明治22年9月7日死去。60歳。家元は一時たえた。江戸出身。

富本豊前太夫(3代) とみもと-ぶぜんだゆう

1805-1876 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
文化2年生まれ。富本節の2代富本豊前太夫の養子となり,文政5年初出演,11年3代を襲名。嘉永(かえい)4年受領して3代富本豊前掾(ぶぜんのじょう),翌年豊前大掾(だいじょう)となる。明治9年5月2日死去。72歳。江戸出身。初名は富本午之助(うまのすけ)(2代)。後名は豊珠翁。

富本豊前太夫(2代) とみもと-ぶぜんだゆう

1754-1822 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
宝暦4年生まれ。初代富本豊前太夫の子。2代富本豊志(とよし)太夫をへて安永6年2代を襲名。文化14年受領して2代富本豊前掾(ぶぜんのじょう)。美声で富本節の全盛時代をきずいた。文政5年7月17日死去。69歳。江戸出身。初名は富本午之助(うまのすけ)(初代)。

富本豊前太夫(7代) とみもと-ぶぜんだゆう

1890-? 明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治23年生まれ。骨董(こっとう)商の父が富本節の6代富本豊前太夫と縁故があったため,9歳で一時たえていた家元を相続,豊志(とよし)太夫を名のる。明治42年7代を襲名。弟子にのち新派富本節をたてた初代富本豊前がいる。本名は榎本晴久。

富本豊前太夫(5代) とみもと-ぶぜんだゆう

1861-1880 明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
文久元年生まれ。富本節の4代富本豊前太夫の子。明治8年5代を襲名したが,13年8月23日死去。20歳。4代が復帰して6代となった。江戸出身。

富本豊前太夫(6代) とみもと-ぶぜんだゆう

富本豊前太夫(とみもと-ぶぜんだゆう)(4代)

富本豊前太夫(8代) とみもと-ぶぜんだゆう

富本豊前(とみもと-ぶぜん)(初代)

富本豊前太夫(9代) とみもと-ぶぜんだゆう

富本豊前(とみもと-ぶぜん)(2代)

富本豊前太夫(10代) とみもと-ぶぜんだゆう

富本豊前(とみもと-ぶぜん)(3代)

富本豊前太夫(11代) とみもと-ぶぜんだゆう

富本豊前(とみもと-ぶぜん)(4代)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の富本豊前太夫の言及

【富本豊前】より

…富本節の家元。始祖は豊前太夫を名のらなかったが,その子が2世豊前太夫と称した。また7世までは豊前太夫または豊前掾,以降は単に豊前と称したので,ここではそれらを一括した。(1)初世(1716‐64∥享保1‐明和1) 富本節の始祖。本名福田弾司。宮古路豊後掾の門人で初名品太夫。宮古路小文字太夫,関東小文字太夫,常磐津小文字太夫を経て,1748年(寛延1)に富本豊志太夫と名のって独立,富本節を樹立。翌49年豊前掾藤原敬親(たかつぐ)。…

※「富本豊前太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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