富永町
とみながちよう
南北に通る新町通(旧町尻小路)を挟む両側町。町の南側は万寿寺通(旧樋口小路)にも面する。
平安京の条坊では左京六条三坊一保一町東側及び同八町西側の地、平安中期以降は樋口町尻小路にあたる。応永三二年(一四二五)一一月一〇日付の酒屋交名(北野天満宮史料)には、「樋口町東北頬
俊」の名がみえ、また記載に不備があると思われるが、同三三年二月一六日付の酒屋交名(同書)にも「樋口町西頬 三郎左衛門」の名がある。
富永町
とみながちよう
下京区河原町通松原上ル二丁目
ほぼ南北に通る河原町通に東面する片側町で、町の中央を東西に長等辻子が通る。
平安京では京域外で、崇親院領となっていた。天正一五年(一五八七)には町の北側に勝円寺が移転。
寛文九年(一六六九)から翌年にかけて行われた鴨川新堤の築造後に町地として発展した。新堤建設直後の寛文一二年洛中洛外大図には既に「富永町」とあり、以後変更はない。町成立後も京都代官の支配下にあったようで(北村伝兵衛家文書)、年貢は銀納で蔵入地となっていた。
富永町
とみながちよう
東山区大和大路四条上ル東入
四条通より一筋北、旧古道通(現富永町通)に位置。西は大和大路(縄手筋)。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「三条通より南へ六すじ目
富永町 此町東の辻、南へ行所切通と云。祇園町へ出る也。東の行当りは、こつぽり町也。西は縄手通にて行当也」と位置を記す。町地への編入は、正徳三年(一七一三)であったが、市街化は遅れて、延享二年以後という(坊目誌)。地図では天明三年(一七八三)改正細見京絵図の「トミナガ丁」が初見である。
富永町
とみながちよう
東西に通る高辻通(旧高辻小路)を挟む両側町。町の中央を南北に岩上通が通る。
平安京の条坊では左京五条二坊二保五町北側と同六町南側にあたり、平安中期以後は高辻小路堀川小路の西の地。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「たんばや丁」とあり、宝暦四年(一七五四)京都絵図を下限とする民間刊行の木版図はすべて同名を記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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