寺中村(読み)じちゆうむら

日本歴史地名大系 「寺中村」の解説

寺中村
じちゆうむら

[現在地名]金沢市寺中町・桂町かつらまち

畝田うねだ村の西に位置し、宮腰みやのこし往来が通る。北は宮腰佐那武さなたけ明神社(現大野湊神社)社僧の屋敷跡に村立てされたことが地名の由来という(加賀志徴)。また中世には佐那武寺村とも称されたらしい。「天文日記」天文七年(一五三八)七月一九日条によれば、延暦寺西塔北谷さいとうきただに正観しようかん院は、加賀にある末寺(一つは尊重坊)の寺領で一揆組織石川郡六ヶ組の管理下にあった「佐那武守」(佐那武村か)が、前年来、洲崎兵庫に押領されているとして、知行の回復を本願寺に依頼した。同月二三日、証如は加賀国内が入乱れている状況なので、静まってから対策をとると返答、翌八月一六日、正観院が再び同様の依頼を行ってきたため、同月二八日「末寺両坊領六ケ組佐那武守村」の申付けを行っている。


寺中村
じちゆうむら

[現在地名]東海市荒尾あらお

村の東境を半田はんだ街道が南北に走る。北は名和なわ村、東は渡内わたうち村と接する。村名は、室町期の木田きだ城主荒尾小太郎の建立した真言宗の七堂伽藍に由来(雑志)。七堂伽藍は戦火のため焼失したが、現曹洞宗運得うんとく寺はその一部で、荒尾氏の墓と伝える宝篋印塔三基や浄登の名を刻む宝篋印塔(市指定文化財)、一六世紀に活躍した荒尾氏の位牌、鎌倉中期作の薬師如来像がある。

「寛文覚書」によれば、概高二八四石余、田七町一反九畝余・畑一三町九反七畝余、家数四二、人数一八二。


寺中村
じちゆうむら

[現在地名]益城町寺中・寺迫てらさこ

東は田原たばる村、西はさこ村と接する。建仁二年(一二〇二)一一月三日の津守保田地坪付目録写(阿蘇家文書)に「一所三反 寺中のかわら田」「一所一反二丈なり 寺中の二のいて」「一所三丈 十一月 寺中のめん田」「一所三丈 寺中のかゝみ田」がみえる。慶長国絵図に村名がみえ、近世は沼山津手永に属した。正保郷帳では田四六一石二斗余・畑四七一石五斗余。「国誌」に「里俗上寺中村ト云、灰塚ト云小村アリ」とある。文化八年(一八一一)の沼山津手永略手鑑では、寺中村が高六〇〇石二斗余、田一三町四畝余・畑三二町三反九畝余、下寺中村が高三〇〇石一斗余、田七町余・畑一八町八反余で、商札一がある。


寺中村
じちゆうむら

[現在地名]鯖江市寺中町

砥山とやまの南西麓に位置し、北は金谷かなだに村、南はなか村に接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では川田かわだ庄に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方四一九石余・畠方一〇〇石余。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領享保六年(一七二一)鯖江藩の村替で小浜藩領となる。年号不詳の小浜拾ケ村明細帳(宮川家蔵)によれば家数二二、小物成は夫米・糠・藁のほか大工役・山手銀・砥山運上を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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