小口村(読み)おぐちむら

日本歴史地名大系 「小口村」の解説

小口村
おぐちむら

[現在地名]竜王町小口

薬師くずし村の南にある。村の中央を祖父そぶ川が北流し、同川の東は平地、西は丘陵地となる。東方は惣四郎そうしろう川を境に綾戸あやど村。永徳二年(一三八二)八月一五日の地内真気まき神社の棟札(同社蔵)に「小口真気明神」とある。永正一二年(一五一五)六月一〇日守護代伊庭貞隆は当地にあった永源寺領分田一町の年貢を元のごとく同寺に運上するよう「小口百姓中」に命じている(「伊庭貞隆書下」永源寺文書)。翌一三年九月二七日にも当地および薬師の名主・沙汰人・百姓中に対して守護六角氏の奉行人進藤貞治らが永源寺領田地に新たに勘料を課そうとする者たちに応じてはならないと命じている(「六角氏奉行人奉書」同文書)

天正一九年(一五九一)には豊臣秀吉から「おくちむら」高九六五石余などが伊勢津城主富田知信に加増されている(同年四月二六日「知行目録」富田文書)

小口村
おぐちむら

[現在地名]大口町小口 萩島はぎしま稲口いなぐち

北は下野しもの(現扶桑町)、西は余野よの村に接する。「和名抄」の小口おくち郷は当村を中心とする地と推定される。天文九年(一五四〇)二月二七日の宮内衛門売券写(江南市曼陀羅寺蔵)には「売主 小村久野 宮内衛門(略押影)、支証人 大久地 又五郎(略押影)」と「大久地」の字をあて、天正一二年(一五八四)六月四日の佐竹義重宛羽柴秀吉書状写(諸将感状下知状并諸士状写)には「尾口・羽黒・楽田と申三ケ所、付城申付」と「尾口」の字をあてている。

小口村
こぐちむら

[現在地名]馬頭町小口

和見わみ村の西、那珂川東岸に位置し、村の中央を南流する小口川が南端で那珂川に合流する。奥州棚倉たなぐら(現福島県東白川郡棚倉町)黒羽くろばね・大田原方面へ向かう往来道が通る。中世のうめたいら館跡・広瀬城跡がある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高(茨城高等学校図書館蔵)によると高三八六石余。同二一年の知行割郷帳(水戸彰考館文庫蔵)では、本郷ほんごう(飯田新右衛門ほか二名)・梅ヶ平(榎本七郎左衛門ほか四名)萩草はぎくさ(奥津勘介ほか三名)大平おおひら(鈴木式部)の四村に分れており、同一八年の各村検地帳(大金重徳文書)では、本郷高三七一石余・反別四一町五反余、梅ヶ平一二二石余・反別一六町余、萩草七三石余・反別八町三反余、大平七八石余・反別一〇町九反余。

小口村
おぐちむら

[現在地名]岡谷市銀座ぎんざ大栄だいえい町・塚間つかま町・さいわい町・加茂かも町・郷田ごうだ

現岡谷市のほぼ中央部に位置し、東と北は小井川おいかわ村、西は岡谷村、南は下浜しもはま(岡谷村のうち)に境を接している。

村名の初見は嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「岡野屋十五社小口水神」とあり、天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)には「高四百弐拾石五斗 小口郷」とある。

同村では、嘉永五年(一八五二)二月の小口村源右衛門等賃搗水車取立願(神代共有)などによると、江戸時代末には、用水せぎを利用した水車業(賃搗)が盛んになった。

小口村
おぐちむら

[現在地名]亀岡市千歳ちとせ町 小口

北は美濃田みのだ村、西は池尻いけじり村および馬路うまじ村、南は出雲いずも村、東は山に沿う。

元和元年(一六一五)より元禄一一年(一六九八)まで幕府領であり、以後は幕府領と旗本杉浦出雲守知行地との入組

小口村
こぐちむら

[現在地名]新津市小口

能代のうだい川左岸の台地上に位置し、東は川を挟んで大関おおせき村。貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳に一三〇石八斗余とある。寛保二年(一七四二)の村明細帳(渡辺家文書)によれば下条組に属し、高二二〇石七斗余、家数四九・人数二七六(男一三八・女一三八)、馬一で、養蚕なども行われた。「白川風土記」の家数は五四。村の南の台地には、順徳天皇の皇子顕成王(広臨親王)の墓所といわれる若宮わかみや御廟がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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