小園村(読み)こぞのむら

日本歴史地名大系 「小園村」の解説

小園村
こぞのむら

[現在地名]阿蘇町西小園にしこぞの

南は折戸おりど村、東は西湯浦にしゆのうら村と接する。中世には湯浦郷内で、村域内に小園・中園なかぞの中尾なかお馬場ばばなどがあった。至徳二年(一三八五)八月七日の阿蘇社領郷々注文(阿蘇家文書)に「なかその」がみえ、屋敷一所と田三丈があり、南郷(大宮司家)代官権大宮司と「なかゝ」の代官一命婦の二人の知行となっている。応永一六年(一四〇九)九月二六日の阿蘇社領権大宮司方催促方田数坪付注文(同文書)に、はゝ(馬場)・中を(中尾)・中園・こその(小園)が記され、馬場には五反、中尾には三反、中園には四反、小園には三反の庄分の田地(中司免)があり、馬場と中園と小園は百姓が逃亡しなかったため、この年耕作が行われた。中尾は百姓が逃亡したが、別の百姓を入れて耕作が行われている。


小園村
こぞのむら

[現在地名]寄居町小園

小薗とも記す。露梨子つゆなし村の北東に位置し、北を荒川が限る。猪俣党の猪俣時資の曾孫である尾園野三郎家高(「岡部系図」大阪府岡部和子氏蔵)が居住した地といわれる。当地の浄土宗松巌しようがん寺に室町時代後半の作とみられる阿弥陀如来坐像があり、その蓮台墨書銘に「本願小薗村住侶性意書記」とみえる。元亀四年(一五七三)三月一日、町田雅楽助は小薗の白岩弥三郎分一九貫八六〇文と同又三郎分一四〇文の知行地を宛行われた(「北条氏邦印判状」町田文書)。田園簿では高七八石余はすべて畑で、幕府領。明暦元年(一六五五)検地により上小園村・下小園村に分村(「上小園村検地帳」・「下小園村検地帳」石田家文書)


小園村
こぞのむら

[現在地名]津久見市小園町・中町なかまち下青江しもあおえ 小園・中村屋なかむらや

道籠どうごもり村の東、青江川の下流右岸に位置し、東は門前もんぜ村。江戸時代は臼杵藩領で、初め津久見村組(慶長一一年惣御高頭御帳)、のち道尾組に属した(「臼杵藩御会所日記」など)。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ、高七〇石余(田方一四石余・畑方五五石余)。惣御高頭御帳には小苑村とみえ同高。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳には小薗村とあり同高、日損所で柴山がある。正保郷帳では臼杵うすき庄に属し、高九八石余(田方三二石余・畑方六五石余)とあるが、この高は門前村の高を合せたもの。


小園村
おぞのむら

[現在地名]波野村小園

村域の北側を御伊勢おいせ川が東流し、東は豊後国竹田領、西は永仁田ながにた村・波野村、南は赤仁田あかにた村、北は片俣かたまた(現産山村)に接する。


小園村
おぞのむら

[現在地名]諫早市中田町なかだちよう大場町おおばちよう白木峰町しらきみねまちなど

西長田にしながた村の北に位置する。正保国絵図に「小薗村」とあり、高一一八石余。同絵図では北西帯田おびた村がある。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)でも小薗村と記され、天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録でも高一一八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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