日本大百科全書(ニッポニカ) 「小室直樹」の意味・わかりやすい解説
小室直樹
こむろなおき
(1932―2010)
社会科学者。東京に生まれる。1951年(昭和26)京都大学理学部数学科入学。1955年に卒業後、大阪大学大学院経済学研究科に入り、森嶋通夫(もりしまみちお)らに学ぶ。1956年にフルブライト留学生としてアメリカ合衆国に留学し、ミシガン大学でダニエル・バービッジ・スーツDaniel Burbidge Suits(1918― )から計量経済学を、マサチューセッツ工科大学でサミュエルソンから理論経済学を、さらにハーバード大学でスキナーから心理学、パーソンズから社会学を学んだ。とりわけ、パーソンズの提唱していた構造機能分析に共感し、社会科学の一般理論の構築による社会現象全体の解明と社会的応用を志した。
1962年にアメリカから帰国し、翌1963年に東京大学大学院法学政治学研究科に入学。丸山真男(まるやままさお)、京極純一(きょうごくじゅんいち)(1924―2016)、川島武宜(たけよし)、大塚久雄、中根千枝(1926―2021)、富永健一(1931―2019)らに学びつつ研究、執筆活動を行い、雑誌『思想』に発表した論文「社会科学における行動理論の展開」(1968~1969)で、若手の優れた社会学者に贈られる城戸浩太郎賞を1970年に受賞した。同時期、川島編『法社会学講座』全10巻(1972~1973)の編集に協力して「規範社会学」(1972)等の論文を同シリーズに執筆し、また東京都の委託研究で社会福祉指標の策定にも携わる等、旺盛(おうせい)な研究活動を展開した。1973年「衆議院選挙区の特性分析」で東京大学より法学博士の学位を取得。こうした研究活動と並行して、1967年から東京大学法学部の大学院生に博士論文の指導を始め、指導を受ける者の増加に伴い「小室ゼミナール」とよばれるようになった。この「小室ゼミ」は、1969年からは参加者の所属、専攻、年齢を問わず、広く社会科学の基礎を指導する自主ゼミナールとなり、大学院生や社会人が多く参加し、橋爪大三郎(はしづめだいさぶろう)(1948― )、宮台真司(みやだいしんじ)(1959― )らも指導を受けた。
1975年、社会学のアノミー理論を日本社会分析に応用した『危機の構造』で毎日・日本研究賞を受賞。翌1976年同論文を単行本として刊行したころから、研究論文だけでなく一般向けの社会評論も雑誌等に発表するようになった。1979年に栄養失調のため入院したことを転機として以後、『ソビエト帝国の崩壊』(1980)、『田中角栄の呪(のろ)い』(1983)等、国際情勢、政治、経済、教育、天皇制等の具体的で時事的なテーマを社会科学的に分析、解説する「一般書」を続々と執筆、刊行。『ソビエト帝国の崩壊』では、構造機能分析やマックス・ウェーバーの宗教社会学の理論を用いて、システムの機能不全による旧ソビエト体制崩壊の必然性とその過程を実際の旧ソビエト連邦崩壊の10年以上前に予測した。以後、大学等の研究、教育機関に定職を得ることなく、在野の研究者として著作を発表し、後進の指導を続け、数学や論理的思考の啓蒙書も刊行した。
小室の活動は、1960年代なかばから1970年代なかばにかけての、アカデミズムの世界で社会学者吉田民人(たみと)(1931―2009)や富永健一と並ぶ構造機能分析の理論家として社会科学の一般理論を探究した時代と、社会科学理論を駆使した時事的な分析を一般向けに行ったそれ以後の時代に大きく分けられるが、厳密な社会科学理論を具体的な社会事象の分析に応用し、将来予測や政策的提言を積極的に行うという科学としてきわめてオーソドックスなあり方は、この二つの時期を通じて一貫している。
[若林幹夫]
『「社会科学における行動理論の展開――社会行動論の位置づけと再構成のための試み」上・中・下1~3(『思想』No.524、528、533、535、537号所収・1968~1969・岩波書店)』▽『「規範社会学」(川島武宜編『法社会学講座4――法社会学の基礎2』所収・1972・岩波書店)』▽『『ソビエト帝国の崩壊』(1980・光文社)』▽『『田中角栄の呪い――"角栄"を殺すと、日本が死ぬ』(1983・光文社)』▽『『危機の構造――日本社会崩壊のモデル』(中公文庫)』▽『橋爪大三郎・副島隆彦著『現代の預言者・小室直樹の学問と思想――ソ連崩壊はかく導かれた』(1992・弓立社)』