小橋一太(読み)こばしいちた

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小橋一太」の意味・わかりやすい解説

小橋一太
こばしいちた

[生]明治3 (1870).10.1. 肥後
[没]1939.10.2. 神奈川
明治・大正・昭和期の内務官僚,政治家。1898年東京帝国大学卒業後内務省に入り,内務次官などを歴任。1920年第14回衆議院議員総選挙で当選。1924年1月清浦奎吾内閣の内閣書記官長(→内閣書記官)に就任したが,立憲政友会高橋是清派が清浦内閣打倒の第2次護憲運動(→憲政擁護運動)に立ち上がったため,床次竹二郎とともに政友会脱党政友本党を組織した。1927年憲政会と合流し立憲民政党結成総務に就任,1929年浜口雄幸内閣に文部大臣として入閣した。同 1929年の越後鉄道疑獄事件に連座して第一線を退いたが,1937年6月東京市長として復帰した。

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関連語 学歴

20世紀日本人名事典 「小橋一太」の解説

小橋 一太
コバシ イチタ

大正・昭和期の官僚,政治家 衆院議員(立憲民政党);文相;東京市長。



生年
明治3年10月1日(1870年)

没年
昭和14(1939)年10月2日

出生地
熊本県

学歴〔年〕
東京帝大法科大学英法科〔明治31年〕卒

経歴
内務省に入り、山口・長崎各県参事官、文書課長、地方・土木各局長、明治41年欧米出張、衛生・地方各局長、大正7年原敬内閣内務次官。9年衆院議員となり当選3回。政友会政務調査会長などを経て13年清浦奎吾内閣書記官長、政友本党総務。昭和2年立憲民政党結成に参画、4年浜口雄幸内閣文部大臣となったが、越後鉄道疑獄事件で辞任、12年東京市長となった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「小橋一太」の解説

小橋 一太
コバシ イチタ


肩書
衆院議員(立憲民政党),文相,東京市長

生年月日
明治3年10月1日

出生地
熊本県

学歴
東京帝大法科大学英法科〔明治31年〕卒

経歴
内務省に入り、山口・長崎各県参事官、文書課長、地方・土木各局長、明治41年欧米出張、衛生・地方各局長、大正7年原敬内閣内務次官。9年衆院議員となり当選3回。政友会政務調査会長などを経て13年清浦奎吾内閣書記官長、政友本党総務。昭和2年立憲民政党結成に参画、4年浜口雄幸内閣文部大臣となったが、越後鉄道疑獄事件で辞任、12年東京市長となった。

没年月日
昭和14年10月2日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小橋一太」の解説

小橋一太 こばし-いちた

1870-1939 大正-昭和時代前期の官僚,政治家。
明治3年10月1日生まれ。内務省にはいり,大正7年内務次官。9年衆議院議員(当選3回)。政友会から政友本党に転じ,民政党の結成に参加。昭和4年浜口内閣の文相となるが,越後(えちご)鉄道疑獄事件で辞任。12年東京市長。昭和14年10月2日死去。70歳。肥後(熊本県)出身。東京帝大卒。著作に「農村自治」など。

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世界大百科事典(旧版)内の小橋一太の言及

【教化総動員運動】より

…第1次世界大戦後の経済不況と革命運動の登場を〈経済国難〉〈思想国難〉であるとして,浜口雄幸内閣が金解禁の断行と財政緊縮によって経済の安定をはかり社会運動の発展を抑圧するために推進した国民への宣伝活動。すでに1923年の国民精神作興詔書以来,国民に対する教化運動は進められていたが,小橋一太文相は29年8月,この運動の強化を計画し,(1)国体観念を明徴にし国民精神を作興すること,(2)経済生活の改善をはかり国力を培養すること,を目標とする教化総動員運動の実行を翌月に指示した。具体的には神社参拝,国旗掲揚,虚礼廃止,禁酒禁煙などを国民に実行させ,天皇崇拝の心情を喚起させ,消費生活を切りつめさせることをねらったものであった。…

※「小橋一太」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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