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床次竹二郎 とこなみ たけじろう

デジタル大辞泉の解説

とこなみ‐たけじろう〔‐たけジラウ〕【床次竹二郎】

[1867~1935]政治家。鹿児島の生まれ。高橋両内閣の内相、以後、鉄道相・逓信相を歴任政友会を割って政友本党を結成、その総裁となったが、5年にして政友会に復帰した。のち除名

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百科事典マイペディアの解説

床次竹二郎【とこなみたけじろう】

政治家。鹿児島藩士の子として鹿児島城下に生まれる。帝大卒。1913年鉄道院総裁となるが,翌年下野。同年代議士となり立憲政友会入党原敬高橋是清内閣の内相。清浦奎吾内閣支持のため政友本党を組織して総裁に就任。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

床次竹二郎 とこなみ-たけじろう

1867*-1935 明治-昭和時代前期の官僚,政治家。
慶応2年12月1日生まれ。床次正精(まさよし)の長男。内務次官,鉄道院総裁などをへて,大正3年政友会から衆議院議員(当選8回)となり,原・高橋両内閣の内相。13年政友本党総裁。民政党顧問をへて昭和4年政友会に復帰するが,9年党議に反し岡田内閣に入閣したため除名。昭和10年9月8日死去。70歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。帝国大学卒。

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世界大百科事典 第2版の解説

とこなみたけじろう【床次竹二郎】

1866‐1935(慶応2‐昭和10)
大正・昭和期の官僚,政治家。鹿児島出身。帝国大学法科大学卒業。1906年内務省地方局長,一時,樺太庁長官を兼任し,第2次西園寺公望内閣の内務次官を務めた。その後,13年鉄道院総裁に就任し,現職のまま立憲政友会に入党し,15年代議士となり,その後当選8回。原敬内閣の内相兼鉄道院総裁に抜擢され,高橋是清内閣でも内相を務めた。その間,内務省社会局,協調会を設置し,民力涵養運動を推進して社会運動に対抗し,さらに郡制の廃止を断行した。

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大辞林 第三版の解説

とこなみたけじろう【床次竹二郎】

1866~1935) 政治家。鹿児島県生まれ。東大卒。原・高橋内閣の内相、犬養内閣の鉄道相、岡田内閣の逓信ていしん相を歴任。その間、政権の座を目指して政党遍歴・新党結成を繰り返し、政党政治に混迷をもたらした。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

床次竹二郎
とこなみたけじろう

[生]慶応2(1867).12.1. 鹿児島
[没]1935.9.8. 東京
政治家。 1890年東京大学政治科を卒業。 1906年内務省地方局長,08年樺太庁長官,11年第2次西園寺内閣のもとで内務次官,13年鉄道院総裁をそれぞれ歴任した。同年代議士に当選し,立憲政友会に入党。 18年原内閣のもとで内相と鉄道院総裁を兼ね,21年高橋内閣のもとでも内相として留任した。 24年清浦内閣成立時には清浦内閣の与党結成のため政友会を脱党し,政友本党の総裁となったが,27年田中内閣の成立を機に憲政会と統合し立憲民政党を結成して顧問の地位についた。 28年民政党を脱党し,新党倶楽部を結成して総裁となったが,29年政友会に復帰した。しかし 31年犬養内閣の鉄道相を経て,34年岡田内閣に党決議に反して入閣,逓信相の地位についたため,政友会から除名された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

床次竹二郎
とこなみたけじろう
(1866―1935)

大正・昭和期の政治家。慶応(けいおう)2年12月1日鹿児島に生まれる。1890年(明治23)帝国大学を卒業後官界に入り、大蔵・内務畑を歩み累進。1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の内務省地方局長となり、原敬(はらたかし)内相の信任を得る。1913年(大正2)政友会に入党、官僚の政党化を象徴した。翌年代議士に当選。1918年原内閣の内相兼鉄道院総裁。しかし原の没後は高橋是清(たかはしこれきよ)と主導権を争い、1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣を支持して政友会を割り政友本党を結成し総裁に就任、第二次護憲運動に背を向けた。のち少数勢力を率いて政権を求め、憲政会と合流して立憲民政党を結成したり、政友会に復帰したり、動揺を繰り返した。1931年(昭和6)犬養毅(いぬかいつよし)内閣の鉄道相。岡田啓介(おかだけいすけ)内閣下の逓信(ていしん)相在任中の昭和10年9月8日死去。[阿部恒久]
『前田蓮山著『床次竹二郎伝』(1939・同書刊行会) ▽安藤英男著『幻の総理大臣――床次竹二郎の足跡』(1983・学芸書林)』

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世界大百科事典内の床次竹二郎の言及

【協調会】より

…米騒動後に成立した原敬内閣の内務大臣床次竹二郎は,第1次大戦後の労働者統合策について救済事業調査会に諮問し,また実業家渋沢栄一,貴族院議員徳川家達(とくがわいえさと)らと協議したのち,その一つとして労使協調のための機関設立を決意し,さらに日本工業俱楽部(クラブ)などの意見も求めてその構想を具体化した。こうして1919年8月の発起人会を経て,同年12月に正式に発足したのが財団法人協調会である。…

【三教会同】より

…日露戦争後の社会的矛盾の激化,富国強兵の国民的合意の風化に対し,政府は過激思想を弾圧し,家族国家観による国民教化にとりくんだ。内務次官床次(とこなみ)竹二郎は欧米視察で宗教の感化力の大きさを知り,日本の諸宗教を国民教化に協力させようとし,政府当局や宗教団体を説得し,この会同を実現した。1912年2月25日内務大臣原敬は政府関係者とともに教派神道13名,仏教諸派51名,キリスト教7名の代表者と懇談し,国民道徳振興への協力を求めた。…

【政友会】より

…政友会は,次の加藤友三郎内閣には与党としてこれを支持したが,1923年9月に成立した第2次山本内閣には野党の立場をとり,続く清浦奎吾内閣が貴族院議員を中心に組閣されると,24年高橋総裁ら主流派は憲政会,革新俱楽部とともに護憲三派を形成して第2次護憲運動をおこした。そのため,床次(とこなみ)竹二郎ら反主流派が分裂して政友本党を結成したため,政友会は過半数政党の条件を失い,解散後の総選挙でも議席を減らすことになって政局運用のリーダーシップを失った。その結果,憲政会総裁加藤高明を内閣首班とする護憲三派内閣に高橋ら2名を入閣させ,25年公約の普選法案などを成立させると,高橋は政局打開の見通しを失って辞任し,政友会は陸軍大将田中義一を後継総裁に迎え,さらに革新俱楽部を吸収した。…

【政友本党】より

…立憲政友会(政友会)から分裂した政党。1921年11月原敬暗殺後,政友会内は,第1次大戦後の不況や普選運動の高揚に対応して財政緊縮や普選問題の解決を企図する高橋是清総裁,横田千之助ら改造派(のち非改革派)と,積極財政・普選反対等の従来の政友会路線を維持しようとする床次(とこなみ)竹二郎,中橋徳五郎ら非改造派(のち改革派)の対立が激化した。24年1月清浦奎吾(けいご)内閣の成立を契機に,前者は憲政会,革新俱楽部と結び普選等をスローガンに第2次護憲運動を起こし,後者は脱党して政友本党を組織し清浦内閣の与党となった。…

※「床次竹二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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