小河滋次郎(読み)おがわしげじろう

改訂新版 世界大百科事典 「小河滋次郎」の意味・わかりやすい解説

小河滋次郎 (おがわしげじろう)
生没年:1863-1925(文久3-大正14)

社会事業家,監獄学者。信州上田の出身。東京専門学校(現,早大)法科卒業後,東京帝大法学部専科に学び,穂積陳重の指導を受けて監獄制度に関心を抱く。内務省警保局に入り,ドイツより来日した新進の監獄学者ゼーバハを助け,近代的な監獄学の受容に貢献したほか,少年非行問題にも意を注ぎ,感化法の制定(1900)に尽力した。1900年,監獄の司法省移管に伴い同省に転じ,獄務課長として監獄法の成立(1908)にも関与。また,東京帝大講師,国際監獄会議代表などもつとめた。08年,清国政府に招かれ獄制改革を指導。10年,帰国後は官を辞して大阪に移り,社会事業で活動し,方面委員制度(民生委員)の確立などに努力した。主著に《監獄学》《監獄法講義》《獄事談》《監獄夢物語》など。《小河滋次郎著作選集》全3巻(1942-43)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小河滋次郎」の意味・わかりやすい解説

小河滋次郎
おがわしげじろう
(1863―1925)

社会事業家。監獄学者としても知られる。長野県上田生まれ。東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)、東京帝国大学法科に学び、卒業後ドイツに留学した。1886年(明治19)内務省属として警保局に入り、各地の典獄を務め、司法省監獄事務官、監獄局事務課長を歴任した。その間、東京帝国大学に監獄学を講じ、監獄学の理論体系を構築した。また、1908年(明治41)の監獄法制定に尽力し、同年より2年間、清(しん)国政府獄務顧問。1913年(大正2)大阪府に社会事業協会をおこし、かたわら国立感化院設立に参与、1917年の創設に際してはその所長。1918年、大阪府に方面委員を創設し、現在の民生委員制度の先駆けとなった。また、日本を代表して数度にわたり万国監獄会議に参加した。著書に『監獄学』『監獄法講義』『笞刑(ちけい)論』『救恤十訓(きゅうじゅつじっくん)』などがある。

[須々木主一]

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朝日日本歴史人物事典 「小河滋次郎」の解説

小河滋次郎

没年:大正14.4.2(1925)
生年:文久3.12.3(1864.1.11)
明治大正期の監獄学者。長野県出身。明治17(1884)年東京専門学校(早大の前身),19年帝大法科大学専科卒。穂積陳重の助言で監獄行政に関心をもち,ドイツに留学して研究を重ね,内務省で監獄行政を担当。監獄法制定(1908)に重要な役割を果たし,政府委員として帝国議会答弁に当たる。41年より東京帝大監獄学講師。43年大阪に移り社会福祉事業に尽力,国立感化院の設立に尽力,大正6(1917)年初代所長。7年彼の主張で大阪に民生委員制度の先駆である「方面委員」制度を創設。1908~10年,清国に獄務顧問として滞在,制度改革を指導した。死刑廃止論者としても知られる。『監獄学』などの著書は『小河滋次郎著作選集』にまとめられている。

(長尾龍一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小河滋次郎」の解説

小河滋次郎 おがわ-しげじろう

1864*-1925 明治-大正時代の社会事業家。
文久3年12月3日生まれ。ドイツに留学し監獄状態を視察。明治19年内務省警保局にはいる。監獄法制定に尽力し,国立感化院創立にくわわる。大阪府にうつり,大正7年方面委員(民生委員)制度を創設した。大正14年4月2日死去。63歳。信濃(しなの)(長野県)出身。東京専門学校(現早大)卒。本姓は金子。著作に「救恤十訓(きゅうじゅつじっくん)」など。

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