百科事典マイペディア 「小牧・長久手の戦」の意味・わかりやすい解説
小牧・長久手の戦【こまきながくてのたたかい】
→関連項目蒲生氏郷|小牧[市]|佐々成政|墨俣川の戦|妻籠|長久手[町]|増田長盛
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羽柴(豊臣)秀吉と織田信雄(のぶかつ)・徳川家康との間で,尾張の小牧・長久手を中心として広範な地域にわたった戦い。織田信長の死後,秀吉がしだいに勢力を得るにしたがい,両者の対立関係は激化した。1584年(天正12)3月秀吉軍は伊勢方面から侵攻し,その間に北尾張に飛火して秀吉方の池田恒興が犬山城を占拠したが,家康が小牧山に布陣したので尾張北部からの侵攻は困難となった。家康は土佐の長宗我部氏や紀伊の雑賀,根来一揆と結び,大坂の背後をおびやかさせたので秀吉の東下が遅れた。4月,恒興父子は家康の本拠岡崎を奇襲しようとしたが,長久手でかえって大敗北を喫して父子も戦死し,北部戦線は膠着(こうちやく)状態に入った。5月戦線は西美濃に移ったが,木曾川を渡っての尾張侵攻は容易でなく,6月信雄の居城長島と清須城を分断する尾張南部の蟹江合戦もあったが戦局に進展はなく,11月秀吉は信雄と和し,つづいて家康とも和した。
執筆者:小島 広次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1584年(天正12)尾張国小牧・長久手(愛知県小牧市・長久手市)を中心にくり広げられた豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍の合戦。賤ケ岳(しずがたけ)の戦ののち秀吉と信雄の対立が顕然化し,信雄は家康と同盟を結んで対抗して3月に戦闘状態となる。秀吉軍は犬山城を奪取。家康は小牧山に布陣して外交戦略を展開,根来(ねごろ)衆・雑賀(さいか)衆や四国の長宗我部元親,越中の佐々(さっさ)成政らを動かし秀吉軍を牽制。膠着打破を意図する秀吉軍は,三河国岡崎攻めを敢行するが,4月9日,長久手で敗走。11月12日に信雄が講和を結び,つづいて家康も撤退。この結果,秀吉の統一政権樹立には家康との同盟が必須になった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…82年の本能寺の変後は羽柴(豊臣)秀吉にくみして明智光秀を山崎に破り,また織田氏の遺領を処分するため清須会議に参加し,父子で大坂・尼崎・兵庫12万石余を領した。83年大坂を秀吉に譲って美濃大垣に移り,翌年秀吉と織田信雄・徳川家康が争った小牧・長久手の戦では秀吉につき,戦線の膠着(こうちやく)状態を打破するため三河岡崎への奇襲戦を献策,羽柴秀次・堀秀政・森長可らと尾張長久手まで進出したところを家康に追撃され,4月9日長男之助とともに戦死した。【岩沢 愿彦】。…
…清須会議の後,織田信孝,柴田勝家と同盟して豊臣秀吉と争ったが,83年7月秀吉に降伏した。翌年,小牧・長久手の戦で膠着状態になったとき,尾張南岸に橋頭堡を確保する作戦から秀吉に用いられた。織田信雄の本拠長島城と清須城の中間にあり,一益旧縁の地である蟹江城を海上からの鉄砲奇襲作戦と内応策で奪い取ったが,《老人雑話》が〈蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり〉と表現するような家康軍の猛攻によって開城した。…
…織田信長に仕え,伊勢長島一揆征伐,三河長篠の戦,甲州征伐などに戦功をたて,1582年信濃更科以下4郡20万石余を与えられた。84年,信長の死後織田信雄(のぶかつ)・徳川家康と羽柴(豊臣)秀吉とが争い小牧・長久手の戦が起こったとき,舅(しゆうと)池田恒興(つねおき)とともに秀吉にくみし,4月9日長久手で戦死した。長可はこの戦いに臨み遺言状を作り尾藤甚右衛門に後事を託したが,その内容は当時の武将の考え方を如実に示すものであった(下村誠所蔵文書)。…
※「小牧・長久手の戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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