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(小和田哲男)
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豊臣家五奉行の一人。仁右衛門,右衛門尉と称した。出身は尾張国中島郡増田村,また近江国浅井郡益田郷ともいう。初め秀吉に仕えて禄200石,1584年(天正12)小牧・長久手の戦の戦功で2万石に加増され,翌年従五位下右衛門尉に叙任。小田原征伐,文禄・慶長の役にも従軍した。91年に長束正家らと近江を検地し,94年(文禄3)伏見城の工事を分担。翌年,大和郡山城主として20万石を領した。97年(慶長2)安房を検地。関ヶ原の戦には西軍に加盟し大坂城で留守居,参戦しなかったが領地没収のうえ,高野山追放後,武蔵岩槻へ流謫。大坂の陣のとき,子盛次が入城していたため死を命ぜられた。
執筆者:小島 広次
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安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣(とよとみ)氏五奉行(ぶぎょう)の一人。尾張(おわり)国増田(ました)村(愛知県稲沢市)生まれ。通称仁右衛門(にえもん)。奉行人として近江(おうみ)、安房(あわ)などの検地に力を尽くし、1590年(天正18)に京都鴨川(かもがわ)に現在の三条橋を架けた。武将としては、84年の小牧(こまき)の戦い、90年の小田原役に従い、92年(文禄1)には朝鮮半島にも出征した。95年、この行賞として、豊臣秀保(ひでやす)(秀長養子)の後を受けて大和郡山(やまとこおりやま)城に移り、20万石を与えられた。関ヶ原の戦いには、大坂城を守備。味方の情報を徳川家康に送る。戦後、領地没収、科料金1900枚、銀5000枚の処分を受けた。高野山(こうやさん)に登るが、のち武蔵(むさし)岩槻(いわつき)(埼玉県さいたま市)に追放。大坂落城後、子盛次に連座し自殺させられる。
[奥野高広]
1545~1615.5.27
織豊期~江戸初期の武将。豊臣氏の老臣(奉行)。出身は近江・尾張の2説がある。豊臣秀吉に仕え,1584年(天正12)小牧・長久手の戦功で2万石。この頃から奉行として活動,おもに検地など民政にあたった。文禄の役には渡海し,兵站(へいたん)補給などを担当。95年(文禄4)に大和郡山20万石,秀吉の晩年には年寄(五奉行)の1人に数えられる。関ケ原の戦では西軍につき,戦後,領地を没収され,高野山のち武蔵国岩槻へ配流。大坂夏の陣で子の盛次が大坂方となったため死を命じられた。
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…現在も石垣中に転用石材が多数見いだされる。ついで増田長盛が入城し,城下町全域を含む総構えを構築した。しかし長盛は関ヶ原の戦には西軍に属して改易され,天守も伏見城に移された。…
…1589年(天正17),方広寺大仏殿造営に際し現在地(旧,六条坊門,現,五条通)に移転。造営奉行には増田長盛があたった。当初は大仏橋とも呼ばれたが,1653年(承応2)ころより五条橋と改められたという。…
…1598年(慶長3)7月ごろ豊臣秀吉の死を前にして設置された。前田玄以,浅野長政,増田(ました)長盛,石田三成,長束(なづか)正家の五名で構成される。豊臣氏の奉行は政権の樹立以来存在し,初期の奉行には桑原貞也,杉原家次,細井方成,石田三也(成),増田長盛,大谷吉継,伊藤秀盛など多くの人名を挙げることができる。…
※「増田長盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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