1584年3~11月、織田信長の死後に天下統一を目指した羽柴(豊臣)秀吉が、信長の息子・信雄と徳川家康の連合軍と尾張(愛知県西部)などで衝突した戦い。全国で連動した合戦が勃発した。秀吉方の奇襲の裏をかいた家康方が長久手で勝利したものの、信雄が秀吉と和睦。大義名分を失った家康も撤兵した。秀吉が天下人として歩み始めた一方、家康も豊臣政権で有力な位置を占めることになり、関ケ原の戦い以降の天下取りにつながったとの評価もある。
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羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉と徳川家康・織田信雄(のぶかつ)の連合軍が9か月にわたり尾張(おわり)国内(愛知県西部)で戦った持久戦をいう。織田信長の死後、統一政権の確立を意図する秀吉と信長の次男信雄の対立がしだいに表面化した。1584年(天正12)3月6日、信雄は、秀吉に通じていたと疑いのある老臣津川義冬・岡田重孝・浅井長時を誅罰(ちゅうばつ)し、家康に支援を求めた。家康は信雄と秀吉包囲戦を展開し、15日には尾張の小牧山に本陣を構え、17日には羽黒(はぐろ)に陣していた森長可(ながよし)を破った。これに対し秀吉も大坂を出陣し、29日に楽田(がくでん)(犬山市)に本陣を置き対峙(たいじ)した。秀吉方は10万、家康・信雄方は1万6000~7000が出動したといわれ、これを小牧の戦いという。羽黒で敗北した長可と池田恒興(つねおき)は秀吉に対し、家康を小牧に釘(くぎ)付けにして三河(愛知県東部)を攻撃する後方攪乱(かくらん)を提議し、羽柴秀次(ひでつぐ)(秀吉の甥(おい))を大将として侵入した。しかし、事前に情報が漏れて、4月9日、長久手において挟撃され、長可・恒興をはじめ、2500人を失い、家康方の完勝に終わった。これを長久手の戦いという。
その後、1584年5月1日に秀吉は撤退し、6月12日には家康も清洲(きよす)に戻った。こうした持久戦のなかで秀吉は政治的解決の動きを示し、11月11日に信雄は家康に無断で、伊勢(いせ)国(三重県)桑名(くわな)の東の矢田川で単独で講和した。そのため家康は戦いを継続する名目を失い、浜松城に引き揚げ、12月12日に第2子於義丸(おぎまる)(結城秀康(ゆうきひでやす))を秀吉の養子にすることで和睦(わぼく)した。小牧・長久手の戦いは、徳川領国全体に軍事動員が強行され、給人・百姓に対する武力的掌握が進められ、家康の政治的位置を高めることになった。
[村上 直]
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