改訂新版 世界大百科事典 「引揚げ」の意味・わかりやすい解説
引揚げ (ひきあげ)
海外の日本人が,敗戦という事態のために日本に帰国してきたことを引揚げといい,その人たちを引揚者という。敗戦時に,海外には軍人・軍属および一般邦人が660万人以上いた。民間人の場合は,外地で生活の拠点を築き資産を蓄えていたが,敗戦のためその国の命令や生活手段の喪失で財産を放棄して帰国することになった。中国東北部(旧満州)では,ソ連軍の参戦による戦闘に巻き込まれた開拓団の人たちが肉親を失い子どもを残して帰国するなど悲惨な状況におかれた。復員による引揚げと一般邦人の場合と合わせて年次別の引揚者数は表のとおりで,1946年末までに500万人を超える引揚げがあり,58年までは集団の引揚げが続き,その後は個別の引揚げとなった。このうちアメリカ,中国,オーストラリア,イギリスの各国軍管理地域からの引揚げは敗戦直後に開始され1946年までにほぼ完了し,東南アジアの一部では48年1月まで遅れた。中国東北部とソ連軍管理地域からの引揚げは困難を極めた。引揚げ業務は1945年10月,占領軍総司令部の指令で厚生省が中央責任官庁となり,上陸港に許可された舞鶴等に地方引揚援護局を設けた。占領中の引揚げは占領軍の〈引揚に関する基本指令〉(1946年3月)にもとづいて日本政府が実施した。輸送は残留艦船では足りずアメリカから貸与を受け,食糧・被服・日用品類の交付,医療,上陸後の輸送等の援護には戦災援護会(後の同胞援護会),在外同胞救出学生同盟や婦人団体等が協力した。46年には厚生省の外局として引揚援護院が設置され,48年には復員庁と統合して引揚援護庁となり引揚復員業務全般が一元化された。サンフランシスコ講和条約発効後は閣議決定〈海外邦人の引揚に関する件〉(1952年3月)により行われ,54年には再び厚生省引揚援護局となり,引揚げの進捗(しんちよく)および援護行政を担当し,61年6月に厚生省援護局となり現在にいたっている。
この間,1953年には未帰還者留守家族等援護法が制定され,未帰還者とその留守家族の援護,未帰還者の調査を国の責任で行うことになり,57年の引揚者給付金等支給法により引揚者の在外財産問題に関連して生活援護が行われた。さらに59年の未帰還者に関する特別措置法により,消息不明の未帰還者の調査について最終的措置が講じられた。講和後の戦没者遺骨収集・慰霊事業,日中国交回復後の残留孤児肉親捜しなどは現在に引き継がれた課題となっている。
→シベリア抑留 →復員
執筆者:梅田 欽治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報