賤ヶ岳の戦い(読み)しずがたけのたたかい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

賤ヶ岳の戦い
しずがたけのたたかい

天正 11 (1583) 年4月 21日近江国賤ヶ岳を中心に行われた豊臣秀吉柴田勝家の戦い。本能寺の変後,明智光秀を討ち,京畿を収め勢威を増した豊臣秀吉と,織田家随一の宿老を自認する柴田勝家が,信長の後継問題で対立し,勝家は滝川一益,信長の3男信孝と結び,秀吉を除くことを企て,その年冬から天正 11年2月にかけて戦いが始ったが,越前北庄に本拠をおく勝家は雪のため動けず,その2月ようやく出陣し,4月秀吉軍と賤ヶ岳付近で対峙した。勝家は敗れて北庄に敗走し同月 24日自殺したため,秀吉の地位が確立した。賤ヶ岳の七本槍が有名。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

賤ヶ岳の戦い
しずがたけのたたかい

1583年(天正11)4月、近江(おうみ)賤ヶ岳(滋賀県長浜(ながはま)市、標高422メートル)で、羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))が柴田勝家(しばたかついえ)を破った戦い。近江、美濃(みの)、伊勢(いせ)などで起こった局地戦の一つ。近江から山路を縫い越前(えちぜん)に出る北国街道(ほっこくかいどう)上の木之本(きのもと)、東野(ひがしの)、柳ヶ瀬(やながせ)辺の道路に沿った高地を含む地区での争いの決勝戦。1582年の本能寺の変ののち、羽柴秀吉の勢力が盛んになると、秀吉と織田家の古老柴田勝家との対立がしだいに表面化した。秀吉は織田信長の次子信雄(のぶかつ)と、勝家は信長の三子信孝(のぶたか)および滝川一益(たきがわかずます)と結び、両者の激突は必至の形勢となった。同年12月、秀吉は勝家の属城長浜を降し、信孝を岐阜城に囲み人質をとった。翌1583年正月、一益が伊勢に挙兵。秀吉は2月伊勢に出陣する。勝家は前将軍足利義昭(あしかがよしあき)と後援者の毛利輝元(もうりてるもと)と連絡し、秀吉の挟撃を企てる。そして一益に呼応し、3月10日すぎには柳ヶ瀬北方の内中尾山(うちなかおやま)に出陣。伊勢から軍を返した秀吉は、3月17日賤ヶ岳一帯の高地を占領し、木之本に陣した。そして岐阜の信孝の動きを知ると、4月16日に大垣に入城。20日正午ころ勝家軍攻撃の報を受け、2時ころ転進、9時ころ木之本に着き、翌21日早朝、佐久間盛政(さくまもりまさ)軍を追って賤ヶ岳で撃破、正午ころ勝家を攻め、これを越前(えちぜん)に敗走させた。秀吉の小姓9人、福島正則(ふくしままさのり)、加藤清正(かとうきよまさ)、加藤嘉明(よしあき)、脇坂安治(わきざかやすはる)、片桐且元(かたぎりかつもと)、平野長泰(ひらのながやす)、糟屋武則(かすやたけのり)、桜井左吉、石河兵助らによる「七本槍(しちほんやり)」の功名はこのときのことである。秀吉軍は長駆、越前北庄(きたのしょう)(福井市)を攻め、24日勝家を自殺させた。信孝は自殺、一益は降伏、小牧(こまき)・長久手(ながくて)の前哨(ぜんしょう)戦となる。勝家の組下前田利家(まえだとしいえ)の裏切り説はとらない。[奥野高広]
『高柳光寿著『賤ヶ岳の戦』(1978・春秋社) ▽岩沢愿彦著『前田利家』(1966・吉川弘文館)』

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