小野島村(読み)おのじまむら

日本歴史地名大系 「小野島村」の解説

小野島村
おのじまむら

[現在地名]諫早市小野島

小野おの村の北、本明ほんみよう川河口部の南東岸に位置し、有明海に臨む。古代の条里遺構がみられ、つぼ・三ノ坪・四ノ坪・五ノ坪・八ノ坪・大坪おおつぼなどの数詞坪地名が残る。それより低地ひがし新替・西新替などの中世干拓と考えられる地名がある。近世は諫早郷に属し、肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。元禄一五年(一七〇二)の小野潟村新田本帳(旧青木家蔵文書)には鶴崎つるさき籠・船津ふなつ籠・又井樋またいび籠・太良右衛門たろえもん籠・東北海籠・境江湖さかいえご籠など新田名に籠を付す三六ヵ所を含めて三九ヵ所の新田があり、合せて田四三町余・地米二五六石余、島三八町三反余・地米九五石余、土井三町四反余・地米八石余となっている。玄梁院代配分村付帳では諫早領として「小野潟村」などとみえ、地米高九二石余(大小配分石高帳でも同高)


小野島村
おのじまむら

[現在地名]婦中町小野島

井田いだ川と山田やまだ川の合流点のやや上流に位置し、南は小川子こがわこ村、東は井田川を挟んで麦島むぎじま村。享和元年(一八〇一)以前に大坪おおつぼ村から分立したもので、当時は井田・山田両川の落合小島となっていたところからこの名があると伝える(婦負郡志)。元禄一一年(一六九八)の古田新田高村付改帳(前田家文書)によれば、明暦四年(一六五八)から延宝年中(一六七三―八一)までの新田のうちに村名がみえ、高二八石余。享保六年(一七二一)の高二二石余(「村付高改帳」島倉家文書)


小野島村
おのしまむら

[現在地名]南郷村和泉田いずみた

さかい村の西、伊南いな川左岸にあり、集落山麓にある。「会津風土記」に村名がみえる。和泉田組に属した。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳によると高四〇石余。山際に並ぶ六軒が古くからの家と伝えるが、天明八年(一七八八)の廻国使案内手鑑(馬場家文書)によれば家数一一(うち空家二)・人数四九。「新編会津風土記」では家数一二。家数の変動があるのは、凶作のほかに比較的低い土地に耕地があるため水害によるものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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