百科事典マイペディア 「尚巴志」の意味・わかりやすい解説
尚巴志【しょうはし】
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沖縄を初めて統一し琉球(りゅうきゅう)王国を樹立した人物。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。佐敷按司(さしきあんじ)から身をおこし、やがて山南(さんなん)(沖縄本島南部)の東半分に勢力をもつ島添大里(しまそえおおざと)按司を倒して頭角を現した。1406年、中山(ちゅうざん)王武寧(ぶねい)を滅ぼしてその勢力圏を手中に収めるや、父尚思紹(しょうししょう)を中山王につけて、第一尚氏王朝初代の王とし、自らはその補佐役として統一事業に尽力した。16年、兵を率いて山北(さんほく)(沖縄本島北部)の拠点今帰仁(なきじん)城を攻め、山北王攀安知(はんあち)を滅ぼした。24年、父の死により2代目の王となったが、ほどなく山南王他魯毎(たるみい)を攻め滅ぼし、ついに三山(さんざん)の争乱に終止符を打ち統一王国の樹立に成功した(1429)。その間、中国はもとより日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を促進し、首里(しゅり)城をはじめとする王都首里の整備を行った。政治顧問として中国人懐機(かいき)を重用するなど、彼の治世には随所に斬新(ざんしん)さがみられる。琉球王国の建設者として一時代を画した人物、と沖縄歴史では評価されている。39年4月20日死去。首里の天山(てんざん)陵に安葬されたという。
[高良倉吉]
1372~1439.4.20
琉球王国の第一尚氏王統2代目の王で統一王朝の樹立者(在位1422~39)。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。若くして沖縄島南部に位置する佐敷城(さしきぐすく)の按司となる。通説では山南国の内紛に乗じて1402年島添大里按司(しまそえおおざとあじ)を倒して地歩を堅め,06年中山王武寧(ぶねい)を倒し,父思紹を中山王にたて,16年山北王攀安知(はんあんち)を,29年山南王他魯毎(たろまい)を倒したという。29年を統一国家の樹立年とするが,22年とする説もある。25年明国の冊封使柴山(さいざん)により中山王に冊封され,27年首里城の近在を開削し明の首都北京の池水にならった竜潭(りゅうたん)を築くなど,王都の整備をはかった。華僑の頭目の懐機(かいき)を王相(国相)に任命し,華僑集団と緊密な関係を保ち,朝鮮・中国・東南アジアとの交易を活発化した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…馬天(ばてん)港を囲むように肥沃な泥灰岩土壌の低地が広がり,その背後は石灰岩で覆われた台地である。佐敷からでた尚巴志(しようはし)(1372‐1439)は馬天港に拠って中国や日本本土と貿易して力をたくわえ,1429年三山(琉球)を統一した。馬天港は帆船時代には山原(やんばる)船の港であり,また大東島航路の港でもあった。…
…14世紀末ごろ察度(さつと)が中山の出城として築城したといわれる。1406年尚巴志が中山を攻略して以後,〈琉球国〉支配の中心地となり,1879年まで尚巴志王統7代,尚円王統19代の居城であった。伝説では巴志は大里城の城壁を壊し,その石を手渡しで首里城へ運び大修築したともいわれる。…
…第一尚氏と第二尚氏の区別がある。沖縄に山北(さんほく),中山(ちゆうざん),山南とよばれる三つの小国家が対立していたころ,佐敷(さしき)地方(南部東岸)の按司(あんじ)(首長)であった尚巴志は急速に勢力を増し,1406年にまず中山の覇権を手中にし父尚思紹をして中山王につかせた。16年,尚巴志は山北を滅ぼし,29年にはついに山南をも攻略して初の統一王朝(琉球王国)を樹立した。…
…なお〈琉球〉の名称は察度の入貢のときから用いられはじめ,以後沖縄の公称となった。
[琉球王国の成立]
三山の対立は英雄尚巴志(しようはし)の登場により終止符が打たれる。1416年彼は山北王攀安知(はんあち)を攻め滅ぼし,29年には山南王他魯毎(たるみい)を倒して琉球の統一に成功し,琉球王国を樹立した。…
※「尚巴志」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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