尾上村(読み)おがみむら

日本歴史地名大系 「尾上村」の解説

尾上村
おがみむら

[現在地名]酒々井町尾上・東酒々井ひがししすい

飯積いいづみ村の北、高崎たかさき川中流右岸台地上に位置。中央を酒々井しゆすい村の所城ところじから住野すみの(現八街市)に向かう道、北端を酒々井町下宿しもじゆくからの多古たこ道が通る。小池谷津こいけやつには二反余の谷津やつ池がある(印旛郡誌)。中世は印東いんとう庄のうち。平安時代末期の下総国印東荘郷司村司交名(醍醐寺本醍醐雑事記七・八裏文書)に「小上」の郷司・村司として「藤原弘里」がみえ、「小上」は当地に比定されている。

慶長九年(一六〇四)当時は幕府領で、同年八月の検地帳(尾上区有文書)には印東庄小神村とあり、反別三二町八反余で分米二九四石余、うち上田四町七反余・中田八町二反余・下田一三町五反余、上畑八反余・中畑一町一反余・下畑四町三反余、屋敷四反余、屋敷数二〇、うち明屋敷一。


尾上村
おのえむら

[現在地名]湖北町尾上

今西いまにし村の北西に位置。余呉よご川が東部から北部にかけて流れ、北西で琵琶湖に注ぐ。小野江とも記した。永正一五年(一五一八)三月二〇日、「おのへ」は「一貫六□文」を堅田居初家に納めており(居初家文書)、古くからの漁業集落であった。「輿地志略」によれば河口の尾上湊は朝日湊ともよばれ、「杓の銭」と称して猟船から運上金を徴収したという。大永三年(一五二三)三月には京極高清を尾張に追った浅井亮政が、その子京極高延を浅見貞則の拠る「小野江城」に擁しており(「江北記」など)、天文二二年(一五五三)一〇月二四日には浅井久政が「尾上」の寺院に禁制を下している(広福寺文書)


尾上村
おのえむら

[現在地名]尾上町尾上

東は李平すももたい村、北は高木たかき村、西ははら村へ続き南に田圃を隔てて新屋町あらやまち村がある。

寛文四年(一六六四)一〇月二日、節約に関する訓令が藩から一五遣の肝煎宛に出され(津軽家御定書)、天和村々田畑書上帳(津軽平野開拓史)に一五遣の名称がみえ、猿賀遣の代官所が尾上村にあったことが知られる。また猿賀派立として作られた村で、貞享三年(一六八六)尾上村に改称したという(尾上町の地名と歴史)


尾上村
おかみむら

[現在地名]杵築市船部ふなべ

溝井みぞい村の北方、山を越えた丘陵地に散在する。杵築城下から波多方はだかた峠を越えて、島原藩領高田たかだ(現豊後高田市)に通ずる波多方往還が村の西方を通る。この道は陸路の参勤交代路で、他藩から陸路で杵築藩領に入る主要道でもある。文禄二年(一五九三)八月二〇日の速見郡木付庄中津村田方検地帳(永青文庫)に「をかミ名」がみえる。小倉藩慶長人畜改帳では木付上きつきかみ庄に属し、家数一〇・人数二二(うち本百姓四)、牛六とある。小倉藩元和人畜改帳では高八二石余、家数四・人数三六(うち本百姓四・下人四・名子三)、牛八。


尾上村
おのうえむら

[現在地名]岡山市尾上

花尻はなじり村の北、吉備中山の南東山麓に位置し、東はささ川を境に野殿のどの村、北は一之宮いちのみや村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一千六八〇石余。「備陽記」によると田畠一〇五町五反余。元禄(一六八八―一七〇四)頃の手鑑(則武文書)では直高一千八〇二石余、蔵入と家老伊木将監および家臣二名の給地。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高は元禄期と同高で、蔵入と家老伊木豊後および家臣三名の給地。


尾上村
おのうえむら

[現在地名]金屋町尾上

小原おはら村の西方、早月谷はやつきたに川の右岸にある。「続風土記」に「村名山の尾の上にある義なるへし」とあるが、人家尾根でなく谷間に散在する。早月谷南側の山上に「おのかみ城」とよぶ城跡があり、この丘が尾上である。地名はこれによるものであろう(金屋町誌)。慶長検地高目録には「上村」とあり、村高二七四石余、小物成五斗八升七合。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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