尾崎放哉(読み)おざきほうさい

精選版 日本国語大辞典 「尾崎放哉」の意味・読み・例文・類語

おざき‐ほうさい【尾崎放哉】

俳人鳥取県生まれ。本名秀雄。東京帝国大学法科卒。荻原井泉水に師事。自由律俳句に独自の句境を生む。句集大空(たいくう)」がある。明治一八~大正一五年(一八八五‐一九二六

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デジタル大辞泉 「尾崎放哉」の意味・読み・例文・類語

おざき‐ほうさい〔をざきハウサイ〕【尾崎放哉】

[1885~1926]俳人。鳥取の生まれ。本名、秀雄。波乱に富んだ生活の中で、独自の自由律の句境を確立した。句集「大空たいくう」。

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改訂新版 世界大百科事典 「尾崎放哉」の意味・わかりやすい解説

尾崎放哉 (おざきほうさい)
生没年:1885-1926(明治18-昭和1)

俳人。鳥取市生れ。本名秀雄。一高を経て東京帝大法学部卒。中学時代から句作し,1916年に帝大の先輩荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の俳句雑誌《層雲》に参加,種田山頭火(たねださんとうか)とともに,心のリズムのままに書く自由律俳句の代表的俳人となった。放哉は,23年に社会も家庭も放棄し,京都の一灯園に入所,以後,各地で寺男を務め,25年には小豆島の南郷庵に落ち着くが,その遁世は,個人主義の充満した社会からの逃亡であり,また,無一文の生活において人間の本来的なあり方を希求することでもあった。句集《大空(たいくう)》(1926)に集成された彼の句には,〈せきをしてもひとり〉のような深い孤独感とともに,個人主義を超えた人間のつながりが,〈島の女のはだしにははだしでよりそふ〉という素朴な感情のうちに示されている。26年4月,南郷庵で死去。存在をおおらかに肯定した〈春の山のうしろから煙が出だした〉が辞世句であった。
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朝日日本歴史人物事典 「尾崎放哉」の解説

尾崎放哉

没年:昭和1.4.17(1926)
生年:明治18.1.20(1885)
大正時代の俳人。本名秀雄。初号芳哉。鳥取藩士族の末裔として鳥取市立川町に生まれる。信三,仲の次男。東京帝大法学部卒。中学時代より句作を始め,荻原井泉水の一高俳句会に参加。大学卒業後は東洋生命保険会社に入社し,エリートコースを歩んだが,大正9(1920)年退社。一説には酒癖の悪さのためだといわれる。11年には新設の朝鮮火災海上保険会社の支配人として現地に赴いたが,禁酒の約束を守れず退職,満州(中国東北部)各地を妻と流浪した。帰国後は単身京都の一灯園に入り,下座奉仕の生活を始める。13年には智恩院常称寺に移り,井泉水と再会したが,その後も落ち着くことができず諸所の寺を転々とした。14年に井泉水の紹介で小豆島土庄町の王子山蓮華院西光寺奥ノ院南郷庵の庵主となる。ここが安住の地となり,貧しいなかにも句作三昧の生活を送った。放哉は大正5年より俳句雑誌『層雲』に自由律俳句を投句していたが,代表作とされる短律のものはほとんど晩年に作られている。「咳をしても一人」「墓のうらに廻る」「足のうら洗へば白くなる」。彼は自分の存在を,身体感覚を通して表現した。そこに放哉の個性があり,彼の句の持つリアリティーもそこによっている。また彼の残した膨大な書簡は,素直で端的な表現のなかに等身大の俳人を映し出しているといえるだろう。<著作>『大空』『放哉書簡集』『尾崎放哉全集』<参考文献>大瀬東二『尾崎放哉の詩とその生涯』

(平石典子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾崎放哉」の意味・わかりやすい解説

尾崎放哉
おざきほうさい
(1885―1926)

俳人。鳥取県吉方(よしかた)町(現鳥取市)に生まれる。本名秀雄。中学時代より句作。1902年(明治35)第一高等学校入学。荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)のおこした一高俳句会に入る。東京帝国大学法科に入学後、芳哉の号で高浜虚子(きょし)選の『国民新聞』俳句欄や『ホトトギス』に投句。07年ごろ放哉の号となり、09年大学卒業。東洋生命保険会社入社。15年(大正4)末より井泉水の『層雲』に投句。朝鮮火災海上保険会社支配人になったが酒癖のため退職。妻と別れ京都の一燈園に入り、のち諸方の寺の寺男となった。25年夏、小豆島(しょうどしま)の西光寺奥の院の南郷庵(なんごうあん)に入り独居無言、句作三昧(ざんまい)の境に入ったが1年足らずで病没した。句集『大空』(1926)があり、口語自由律の句に特色を発揮した。

[伊澤元美]

 入れものが無い両手で受ける

『『尾崎放哉全集』全1巻(1980・弥生書房)』『伊澤元美著『新訂俳句シリーズ 人と作品8 尾崎放哉』(1980・桜楓社)』

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百科事典マイペディア 「尾崎放哉」の意味・わかりやすい解説

尾崎放哉【おざきほうさい】

俳人。鳥取市生れ。本名秀雄。東京帝大法科大学卒。1916年に荻原井泉水(おぎわらせんすい)の主宰する《層雲》に参加,種田山頭火(たねださんとうか)とともに自由律俳句の代表的俳人となる。保険会社に勤務していたが,1923年に社会も家族も捨てて京都の一燈園に入所。以後,須磨寺の大師堂,若狭小浜の常高寺などで寺男をしながら各地を放浪し,最後に小豆島の西光寺南郷庵堂守となる。〈咳をしてもひとり〉のように,短律の特異な句境を生んだ。孤独のうちに南郷庵で死去。句集に《大空(だいくう)》がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尾崎放哉」の解説

尾崎放哉 おざき-ほうさい

1885-1926 明治-大正時代の俳人。
明治18年1月20日生まれ。大正4年荻原井泉水の「層雲」に参加。東洋生命保険をへて,11年朝鮮火災海上保険の支配人となるが,酒がもとで退職。妻とわかれ,一灯園や各地の寺で生活。14年小豆島の西光寺奥ノ院南郷庵にはいり,独居無言の生活から口語調の自由律俳句を生んだ。大正15年4月7日同庵で死去。42歳。鳥取県出身。東京帝大卒。本名は秀雄。句集に「大空」。
【格言など】春の山のうしろから煙が出だした(最後の句)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尾崎放哉」の意味・わかりやすい解説

尾崎放哉
おざきほうさい

[生]1885.1.20. 鳥取
[没]1926.4.7. 香川,小豆島
俳人。本名,秀雄。第一高等学校を経て 1909年東京大学法学部卒業。保険会社に勤めたが失職,無一物となり一灯園に入り,寺男などをして暮した。俳句は中学時代から始め,率直明快で詩情に富む句法を確立し,口語俳句史上,不滅の作品を残した。代表句集『大空 (たいくう) 』 (1926) 。

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