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尾崎放哉 おざき ほうさい

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美術人名辞典の解説

尾崎放哉

俳人。鳥取県生。本名は秀雄、初号は芳哉。東京帝大卒。荻原井泉水の俳誌「層雲」で自由律俳句に優れた才能を示す。保険会社で要職につくが退職、地位・財産・家族を捨て一灯園に入園以後放浪の俳人生活を送る。『大空』・『放哉書簡集』・『尾崎放哉全集』などの遺著がある。大正15年(1926)歿、42才。

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デジタル大辞泉の解説

おざき‐ほうさい〔をざきハウサイ〕【尾崎放哉】

[1885~1926]俳人。鳥取の生まれ。本名、秀雄。波乱に富んだ生活の中で、独自の自由律の句境を確立した。句集「大空(たいくう)」。

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百科事典マイペディアの解説

尾崎放哉【おざきほうさい】

俳人。鳥取市生れ。本名秀雄。東京帝大法科大学卒。1916年に荻原井泉水(おぎわらせんすい)の主宰する《層雲》に参加,種田山頭火(たねださんとうか)とともに自由律俳句の代表的俳人となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

尾崎放哉 おざき-ほうさい

1885-1926 明治-大正時代の俳人。
明治18年1月20日生まれ。大正4年荻原井泉水の「層雲」に参加。東洋生命保険をへて,11年朝鮮火災海上保険の支配人となるが,酒がもとで退職。妻とわかれ,一灯園や各地の寺で生活。14年小豆島の西光寺奥ノ院南郷庵にはいり,独居無言の生活から口語調の自由律俳句を生んだ。大正15年4月7日同庵で死去。42歳。鳥取県出身。東京帝大卒。本名は秀雄。句集に「大空」。
【格言など】春の山のうしろから煙が出だした(最後の句)

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朝日日本歴史人物事典の解説

尾崎放哉

没年:昭和1.4.17(1926)
生年:明治18.1.20(1885)
大正時代の俳人。本名秀雄。初号芳哉。鳥取藩士族の末裔として鳥取市立川町に生まれる。信三,仲の次男。東京帝大法学部卒。中学時代より句作を始め,荻原井泉水の一高俳句会に参加。大学卒業後は東洋生命保険会社に入社し,エリートコースを歩んだが,大正9(1920)年退社。一説には酒癖の悪さのためだといわれる。11年には新設の朝鮮火災海上保険会社の支配人として現地に赴いたが,禁酒の約束を守れず退職,満州(中国東北部)各地を妻と流浪した。帰国後は単身京都の一灯園に入り,下座奉仕の生活を始める。13年には智恩院常称寺に移り,井泉水と再会したが,その後も落ち着くことができず諸所の寺を転々とした。14年に井泉水の紹介で小豆島土庄町の王子山蓮華院西光寺奥ノ院南郷庵の庵主となる。ここが安住の地となり,貧しいなかにも句作三昧の生活を送った。放哉は大正5年より俳句雑誌『層雲』に自由律俳句を投句していたが,代表作とされる短律のものはほとんど晩年に作られている。「咳をしても一人」「墓のうらに廻る」「足のうら洗へば白くなる」。彼は自分の存在を,身体感覚を通して表現した。そこに放哉の個性があり,彼の句の持つリアリティーもそこによっている。また彼の残した膨大な書簡は,素直で端的な表現のなかに等身大の俳人を映し出しているといえるだろう。<著作>『大空』『放哉書簡集』『尾崎放哉全集』<参考文献>大瀬東二『尾崎放哉の詩とその生涯』

(平石典子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

おざきほうさい【尾崎放哉】

1885‐1926(明治18‐昭和1)
俳人。鳥取市生れ。本名秀雄。一高を経て東京帝大法学部卒。中学時代から句作し,1916年に帝大の先輩荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の俳句雑誌《層雲》に参加,種田山頭火(たねださんとうか)とともに,心のリズムのままに書く自由律俳句の代表的俳人となった。放哉は,23年に社会も家庭も放棄し,京都の一灯園に入所,以後,各地で寺男を務め,25年には小豆島の南郷庵に落ち着くが,その遁世は,個人主義の充満した社会からの逃亡であり,また,無一文の生活において人間の本来的なあり方を希求することでもあった。

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大辞林 第三版の解説

おざきほうさい【尾崎放哉】

1885~1926) 俳人。鳥取県生まれ。本名、秀雄。東大卒。晩年、小豆島の庵で詠んだ口語調の自由律俳句で知られる。句集「大空たいくう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

尾崎放哉
おざきほうさい

[生]1885.1.20. 鳥取
[没]1926.4.7. 香川,小豆島
俳人。本名,秀雄。第一高等学校を経て 1909年東京大学法学部卒業。保険会社に勤めたが失職,無一物となり一灯園に入り,寺男などをして暮した。俳句は中学時代から始め,率直明快で詩情に富む句法を確立し,口語俳句史上,不滅の作品を残した。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

尾崎放哉
おざきほうさい
(1885―1926)

俳人。鳥取県吉方(よしかた)町(現鳥取市)に生まれる。本名秀雄。中学時代より句作。1902年(明治35)第一高等学校入学。荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)のおこした一高俳句会に入る。東京帝国大学法科に入学後、芳哉の号で高浜虚子(きょし)選の『国民新聞』俳句欄や『ホトトギス』に投句。07年ごろ放哉の号となり、09年大学卒業。東洋生命保険会社入社。15年(大正4)末より井泉水の『層雲』に投句。朝鮮火災海上保険会社支配人になったが酒癖のため退職。妻と別れ京都の一燈園に入り、のち諸方の寺の寺男となった。25年夏、小豆島(しょうどしま)の西光寺奥の院の南郷庵(なんごうあん)に入り独居無言、句作三昧(ざんまい)の境に入ったが1年足らずで病没した。句集『大空』(1926)があり、口語自由律の句に特色を発揮した。[伊澤元美]
 入れものが無い両手で受ける
『『尾崎放哉全集』全1巻(1980・弥生書房) ▽伊澤元美著『新訂俳句シリーズ 人と作品8 尾崎放哉』(1980・桜楓社)』

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