荻原井泉水(読み)オギワラセイセンスイ

デジタル大辞泉 「荻原井泉水」の意味・読み・例文・類語

おぎわら‐せいせんすい〔をぎはら‐〕【荻原井泉水】

[1884~1976]俳人。東京の生まれ。本名藤吉河東碧梧桐かわひがしへきごとうとともに新傾向俳句を唱え、俳誌層雲」を創刊自由律俳句確立句集原泉」「長流」、評論旅人芭蕉」「奥の細道評論」など。

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精選版 日本国語大辞典 「荻原井泉水」の意味・読み・例文・類語

おぎわら‐せいせんすい【荻原井泉水】

  1. 俳人。本名藤吉。東京生まれ。河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加。俳誌「層雲」を創刊。のち、自由律俳句を提唱した。句集に「自然の扉」「原泉」など。明治一七~昭和五一年(一八八四‐一九七六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「荻原井泉水」の意味・わかりやすい解説

荻原井泉水
おぎわらせいせんすい
(1884―1976)

俳人。明治17年6月16日、東京・芝神明町(現港区浜松町)に生まれる。本名藤吉(とうきち)。中学時代より作句し、1901年(明治34)旧制第一高等学校に入学し、角田竹冷(つのだちくれい)の秋声会、岡野知十(ちじゅう)の半面派に関係し、のち正岡子規の日本派に参加し一高俳句会をおこした。05年東京帝国大学言語学科入学、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の新傾向俳句運動に加わり、従来の俳号愛桜(あいおう)を井泉水と改めた。08年東大卒業。碧梧桐と11年4月『層雲』を創刊したが、季題について意見を異にする碧梧桐が大正初頭同誌を去り、井泉水は季題と定型を揚棄した自由律俳句を唱え、門下から野村朱鱗洞(しゅりんどう)、芹田鳳車(せりたほうしゃ)、尾崎放哉(ほうさい)、種田山頭火(さんとうか)らの作家を出した。句集に『原泉』(1960)、『長流』(1964)、『大江』(1971)、主著に『俳句提唱』(1917)、『新俳句研究』(1926)、『旅人芭蕉(ばしょう)』正続(1923~25)、『奥の細道評論』(1928)など。65年(昭和40)芸術院会員。昭和51年5月20日没。

[伊澤元美]

 わらやふるゆきつもる
 棹(さお)さして月のただ中

『『日本詩人全集30』(1969・新潮社)』『荻原井泉水著『この道六十年』(1978・春陽堂)』

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改訂新版 世界大百科事典 「荻原井泉水」の意味・わかりやすい解説

荻原井泉水 (おぎわらせいせんすい)
生没年:1884-1976(明治17-昭和51)

俳人,著述家。東京生れ。本名藤吉(とうきち)。小学生時代から俳句に親しんだが,東京帝大では言語学を専攻,1910年に翻訳《ゲエテ言行録》を処女出版した。このころ,河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らの新傾向俳句運動に共鳴,11年に俳句雑誌《層雲》を創刊してその運動の一翼を担った。しかし,同誌に発表した評論〈昇る日を待つ間〉(1913)などで,新傾向から自由律への展開を示唆,碧梧桐らと分かれて,感動を自由なリズムで書きとめる自由律俳句のリーダーとなる。関東大震災前後には〈自然,自己,自由の三位一体境〉(《新俳句提唱》1922)を志向,その志向のもとで尾崎放哉(ほうさい),種田山頭火(たねださんとうか)らが活躍した。井泉水の句は,《原泉(げんせん)》(1960),《大江(たいこう)》(1971)などに収録されているが,評論や随筆にも旺盛な筆力を発揮,65年に日本芸術院会員となった。〈棹さして月のただ中〉(《原泉》)。
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20世紀日本人名事典 「荻原井泉水」の解説

荻原 井泉水
オギワラ セイセンスイ

明治〜昭和期の俳人



生年
明治17(1884)年6月16日

没年
昭和51(1976)年5月20日

出生地
東京府芝区神明町(現・東京都港区)

本名
荻原 藤吉(オギワラ トウキチ)

別名
幼名=幾太郎,別名=愛桜,愛桜子,随翁

学歴〔年〕
東京帝国大学文科大学言語学科〔明治41年〕卒

主な受賞名〔年〕
勲三等瑞宝章〔昭和41年〕

経歴
中学時代から句作をはじめ、明治39年頃から河東碧梧桐の新傾向運動に参加する。43年「ゲエテ言行録」を翻訳刊行。44年碧梧桐と「層雲」を創刊し、大正2年に碧梧桐らと別れ、主宰するようになった。以後、自由律俳句の中心作家として活躍。自然―自己―自由の三位一体の東洋風哲学を自由律の基盤とし、句集「湧き出るもの」「流転しつつ」「海潮音」「原泉」「長流」「大江」「四海」の他、「俳句提唱」「新俳句研究」「奥の細道評論」など数多くの俳論や紀行感想集を刊行した。昭和30年昭和女子大学教授に就任。40年日本芸術院会員。

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百科事典マイペディア 「荻原井泉水」の意味・わかりやすい解説

荻原井泉水【おぎわらせいせんすい】

俳人。本名藤吉。東京生れ。東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加し,1911年俳誌《層雲》を創刊。のち季題を廃し定型を捨てて自由律俳句を確立した。尾崎放哉,種田山頭火らがここから出た。《井泉水句集》のほか俳論《新俳句提唱》などがある。
→関連項目尾崎放哉種田山頭火中塚一碧楼俳句

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荻原井泉水」の意味・わかりやすい解説

荻原井泉水
おぎわらせいせんすい

[生]1884.6.16. 東京
[没]1976.5.20. 鎌倉
俳人。本名,藤吉。第一高等学校を経て 1908年東京大学言語学科卒業。ゲーテのエピグラム,シラーの2行詩から俳句の理論を発見,河東 (かわひがし) 碧梧桐の新傾向俳句運動に参加,雑誌『層雲』にその新理論を発表,さらに季題無用論を唱えたことで碧梧桐らと分裂,以後同誌を主宰して尾崎放哉,種田山頭火ほか多くの俊才を育てた。「俳句は象徴詩である」と主張,心境的な自由律俳句を発展させた。 55年昭和女子大学教授。 65年芸術院会員。代表句集『原泉』 (1960) ,『長流』 (64) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荻原井泉水」の解説

荻原井泉水 おぎわら-せいせんすい

1884-1976 明治-昭和時代の俳人。
明治17年6月16日生まれ。河東碧梧桐(へきごとう)の新傾向俳句運動に参加し,明治44年句誌「層雲」を創刊する。のち碧梧桐と対立,無定型自由律俳句をとなえて俳壇に大きな影響をあたえる。門下に種田山頭火(さんとうか),尾崎放哉(ほうさい)ら。昭和40年芸術院会員。昭和51年5月20日死去。91歳。東京出身。東京帝大卒。本名は藤吉。別号に愛桜。著作に「俳句提唱」,句集に「原泉」「長流」など。
【格言など】空をあゆむ朗朗と月ひとり(「原泉」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「荻原井泉水」の解説

荻原井泉水
おぎわらせいせんすい

1884〜1976
明治後期〜昭和期の俳人
東京の生まれ。東大言語学科卒。1911年河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう) らと新傾向俳句を目ざし,俳誌『層雲』を創刊。季題を排し,生命を表現することを主張し,自由律俳句の理論確立と実践につとめた。

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367日誕生日大事典 「荻原井泉水」の解説

荻原 井泉水 (おぎわら せいせんすい)

生年月日:1884年6月16日
明治時代-昭和時代の俳人。昭和女子大学教授
1976年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の荻原井泉水の言及

【新傾向俳句】より

…(3)第3期 この趨勢を批判し,乙字は人事は季題にすべからずとして臼田亜浪の《石楠(しやくなげ)》により季題尊重の側に立った。荻原井泉水も11年《層雲》を創刊し,定型と季題を止揚して生命の律動を詠む自由律を提唱,碧梧桐と別れた。一碧楼は季題と形式にとらわれない自由表現を唱え,碧梧桐とともに15年《海紅》を創刊した。…

【層雲】より

…俳句雑誌。荻原井泉水主宰。1911年(明治44)4月創刊,44年4月終刊。…

※「荻原井泉水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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