近衛文麿のブレーン・トラストたることを目ざして設立された国策研究機関。近衛の友人で大日本連合青年団主事の後藤隆之助がその組織者であった。後藤は政界,官界,学界,言論界から左右を問わず広く多数の会員を集めたが,蠟山政道,東畑精一,有沢広巳,高橋亀吉,佐々弘雄,三木清,矢部貞治,笠信太郎,尾崎秀実などの少壮気鋭の知識人を擁し,しかもこれらの人々が研究・立案活動の担い手として積極的に活動した点に昭和研究会の特徴があった。会の歴史は1933年10月の後藤事務所の開設と蠟山を中心とした問題別研究会の組織にまでさかのぼりうるが,一般にその存在が知られるようになるのは,36年11月の昭和研究会設立趣意書,委員人事の公表後のことである。会の活動の中心となったのは前記の人々であるが,その最大の関心事は日中戦争をいかに処理するかという問題であった。その方策として,〈東亜協同体〉〈経済再編成〉〈国民組織〉などの各論が提唱された。これらの主張の基調となったのは〈協同主義〉であり,それに哲学的基礎を与えようとした三木によれば,〈協同主義〉はリベラリズムとファシズムを止揚し,共産主義に対抗する哲学であった。40年の近衛新体制には国民組織の強化の観点から,深く関与したが,運動が官製化されるにしたがって,会内部でも意見が対立,結局,大政翼賛会の成立を機に昭和研究会も40年11月解散した。
執筆者:永井 和
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近衛文麿(このえふみまろ)のブレーン・トラストの役割を担った知識人の研究機関。近衛の友人の後藤隆之助(りゅうのすけ)が企画し、1933年(昭和8)10月蝋山政道(ろうやままさみち)を中心にスタートした後藤隆之助事務所がその発端。同年12月に昭和研究会と名づけ、36年11月には「昭和研究会設立趣意」を発表、学者、ジャーナリスト、官僚、実業家などによる国策樹立のための研究機関であることを明示した。世界政策、政治、経済、文化、中国問題など各専門研究会に多くの知識人を結集して、各種の試案、方策を次々と発表していった。そのうち、38年11月の第一次近衛内閣の「東亜新秩序声明」に呼応して提唱された、蝋山政道、三木清、尾崎秀実(ほつみ)らの「東亜協同体論」はとくに反響をよんだ。40年には新しい国民組織を目ざす「近衛新体制」のプランを提示し、そのための運動を推進したが、結局、大政翼賛会が成立し後藤が翼賛会に入ったことを機に、同年11月解散した。
[北河賢三]
『昭和同人会編著『昭和研究会』(1968・経済往来社)』▽『酒井三郎著『昭和研究会』(1979・TBSブリタニカ)』
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昭和前期の民間政策研究機関。1933年(昭和8)10月後藤隆之助が友人の近衛文麿を将来の首相候補と考え,近衛のための私的な政策研究会を発足させ,12月に昭和研究会と名のった。36年11月機構が整備・組織化され,学者・官僚・ジャーナリストなど多数が参加し,政策研究案が作成・発表された。反ファシズム,革新と新体制を標榜したが,40年11月会首脳の大多数が大政翼賛会に参加して解散。
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