日本大百科全書(ニッポニカ) 「山岡浚明」の意味・わかりやすい解説
山岡浚明
やまおかまつあけ
(1726―1780)
江戸中期の国学者。江戸・本所石原新町の幕臣山岡景(かげひろ)の次男。通称左次右衛門。号は盍簪楼(こうしんろう)主人、梅橋散人、大伴宿禰(おおとものすくね)、澹斎(たんさい)など、剃髪(ていはつ)後は明阿弥陀仏(みょうあみだぶつ)、明阿。狂名大蔵千文。34歳、賀茂真淵(まぶち)に入門(後年離門したと伝えられる)。博覧強記で知られ、五十音引きの百科事典『類聚名物考(るいじゅうめいぶつこう)』(内閣文庫本・342巻目録1巻標題18巻。1755ころ起筆)や武蔵(むさし)国に関する諸書の記事を集成した『武蔵史料』(15巻。1761起筆)を編纂(へんさん)したほか、前期洒落(しゃれ)本の秀作『跖婦人(せきふじん)伝』(3巻3冊。1753刊)、いわゆる江戸三大奇文の一つ『逸著聞集』(3巻3冊。1771跋(ばつ)なる)を著すなど、多彩な活躍をした。安永(あんえい)9年10月15日京都で客死。55歳。墓は大津市の園城寺(おんじょうじ)(三井寺)光浄院と東京都港区元麻布の竜沢寺とに現存する。
[梅谷文夫]
『中野三敏著『山岡浚明年譜考』(近世文学史研究の会編『近世中期文学の諸問題2』所収・1969・文化書房博文社)』▽『山本幸子著『山岡浚明』(『文学遺跡巡礼 国学篇3』所収・1941・光葉会)』