( 1 )「洒落本」はその内容から、「小本(こほん)」「蒟蒻本(こんにゃくぼん)」は本の形からきている名称。
( 2 )洒落本の最初は一般に、享保一三年(一七二八)江戸で出版された「両巴巵言(りょうはしげん)」とされる。吉原での一日の遊びを漢文体で書き細見を付したもので、知識人の戯れ書き(戯作)である。
江戸時代の小説形態の一種。享保(1716-36)後半から始まり,文政(1818-30)ころまでに多く刊行された,遊里に取材する短編の小冊子(小本(こほん))。遊客遊女などの姿態言動を,会話を主とした文章で写実的に描き,かんたんな小説的構成をとるものが多いが,漢文体,狂文体の遊里繁盛記・風物誌,あるいは遊興論もある。〈洒落〉とは,遊里を中心に生まれた〈通(つう)〉という美的生活理念を中軸として,人間の言動の滑稽味を描くことを意味する。最初は,漢学の教養ある人士などが中国の艶史類をまねて遊里の情景風俗をしかつめらしい漢文で叙述した慰みから始まり,やがて会話本位の新しい文体による描写が,1757年(宝暦7)の《異素六帖》《聖(ひじり)遊廓》などで確立された。さらに1770年(明和7)の《遊子方言》(多田爺(ただのじじい)),《辰巳之園》(夢中散人)などから,細密な写実手法を用い,類型的な性格描写による小説的構成が完成され,やがて安永・天明期(1772-89)の全盛を迎える。江戸市中の多くの遊里を対象として,特殊な知識を提示する〈うがち〉が細かくなされ,半可通や野暮のおかしさが強調されて,山手馬鹿人(やまのてのばかひと),田螺金魚(たにしきんぎよ),蓬萊山人帰橋,万象亭(まんぞうてい)(森羅万象)らを経て,天明半ばに洒落本の第一人者山東京伝が出る。温かい人間味に裏づけられた鋭い観察とすぐれた表現描写によって,《通言総籬(そうまがき)》(1787),《傾城買(けいせいかい)四十八手》(1790)ほか多くの傑作を出したが,寛政改革の風俗教化政策による禁令を破ったため処罰され,洒落本は一時衰えた。やがて寛政(1789-1801)後半に復活,式亭三馬,十返舎一九,梅暮里谷峨(うめぼりこくが)らが活躍したが,〈通〉の意識は希薄となり,〈うがち〉よりも人情を表面に押し出し,恋愛や真情を比較的複雑な筋のなかに描くようになる。おのずから長編化を招くことになって人情本へと変化し,一方その写実技法は市井の生活の笑いに焦点をおく滑稽本にうけつがれた。
執筆者:水野 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸中期以後行われた小説形態の一種。遊里に取材し、遊里の習俗、遊客遊女の風俗言動などを、会話を主とした文章で精細に描き、簡単な小説的構成をとったものが多い。また遊里案内や遊客心得、遊興論などの形をとるものもある。書型は半紙四つ折りの小本(こぼん)とよばれる大きさで、紙数30、40枚までの小冊が普通であるが、のちにはやや大形の中本(ちゅうほん)も多くなる。その内容から粋書(すいしょ)・通書(つうしょ)などともよばれ、滑稽本(しゃれぼん)と書かれることもある。最初は1730年ごろ(享保(きょうほう)の後半)漢学の素養のある人々が、中国の遊里文学に倣って漢文体の戯文をつくったことに始まり、遊里の諸事象を古典・故事に付会するおかしさをねらった作品などが出たが、やがて遊里社会を中心として行き渡った「通(つう)」という美的生活理念を追求して、通に至りえない半可通(はんかつう)や野暮(やぼ)の滑稽(こっけい)ぶりをおもしろおかしく描く一方、特殊な遊里社会の知識や内情を「うがち」と称して読者に提供しようとする風潮を生じた。1770年(明和7)の『遊子方言(ゆうしほうげん)』(多田爺(ただのじじい))、『辰巳之園(たつみのその)』(夢中散人寝言先生(むちゅうさんじんねごとせんせい))などによって、吉原・深川を対象とする写実技法による小説の型ができあがり、山手馬鹿人(やまのてのばかひと)(大田南畝(なんぽ))、蓬莱山人帰橋(ほうらいさんじんききょう)、万象亭(まんぞうてい)などが、滑稽とうがちにそれぞれ特色をみせたが、山東京伝(さんとうきょうでん)に至って、『通言総籬(つうげんそうまがき)』(1787)、『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(1790)などの傑作によって洒落本は通の文学としての完成をみせた。
1791年(寛政3)の改革政治による弾圧で、洒落本は一時衰えたが、1800年前後(寛政(かんせい)末・享和(きょうわ)初め)ごろ、梅暮里谷峨(うめぼりこくが)、式亭三馬(しきていさんば)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)らによって、従来の通の意識を脱却した、うがちよりも人情を前面に押し出す主情的な作風が多く出され、やがて後編・続編と続く長編化の傾向をも生じて、1830年ごろ(文政(ぶんせい)末・天保(てんぽう)初め)には人情本(にんじょうぼん)に移行した。一方、会話を主とする写実技法は、笑いの独立とともに、三馬や一九に活用されて、滑稽本(こっけいぼん)の領域に大きく受け継がれた。
[水野 稔]
『水野稔著『黄表紙洒落本の世界』(1976・岩波新書)』▽『同校注『日本古典文学大系59 黄表紙洒落本集』(1958・岩波書店)』▽『中野三敏他校注『日本古典文学全集47 洒落本・滑稽本・人情本』(1971・小学館)』▽『水野稔・中村幸彦・神保五彌他編『洒落本大成』全29巻・補巻1(1978~88・中央公論社)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
蒟蒻本(こんにゃくぼん)とも。近世小説の一様式。江戸中・後期を代表する戯作の一つ。小本(こほん)または中本1冊を基本的な形態とする。遊里を取材対象とするのが典型だが,世相一般に及ぶものもある。1770年(明和7)刊行の田舎老人多田爺(ただのじじい)作「遊子方言」によって,基本的な様式が確立した。通り者と息子株という2人の登場人物による滑稽を軸に,江戸吉原での遊興のさまを会話体,小書きによる衣装などの簡明な説明で叙述する。さまざまな趣向による多くの追随作をうみ,安永~寛政期初めに全盛をきわめた。91年(寛政3)の山東京伝の筆禍によって一時流れがとだえたが,その後に叢生する洒落本は実情を重んじ,人情本への素地をつくった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸中期に知識人の余技として作られはじめた新しい俗文芸をいう。具体的には享保(1716‐36)以降に興った談義本,洒落本(しやれぼん)や読本,黄表紙,さらに寛政(1789‐1801)を過ぎて滑稽本(こつけいぼん),人情本,合巻(ごうかん)などを派生して盛行するそのすべてをいう。またその作者を戯作者と称する。…
…おおよそ縦14~15cm,横10~11cmで,今日の文庫本程度の大きさである。江戸後期の洒落本は主としてこの形態をとる。幕末になって銅版印刷が行われてくると,ハンディな袖珍(しゆうちん)本の形態であるのでこの大きさの書物の出版が増加する。…
…洒落本の評論書。《戯作(げさく)評判花折紙》ともいう。…
※「洒落本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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