新撰 芸能人物事典 明治~平成 「山川園松」の解説
山川 園松
ヤマカワ エンショウ
- 職業
- 箏曲家(山田流),邦楽作曲家
- 肩書
- 山田流箏曲春和会会長
- 本名
- 山川 淳義
- 生年月日
- 明治42年 12月29日
- 出生地
- 宮城県
- 学歴
- 東京盲学校(筑波大学附属視覚特別支援学校)音楽師範科〔昭和5年〕卒
- 経歴
- 父は牧師。生後100日にも満たぬうちに緑内障の診断を受け、東京大学附属病院で3度の手術を受けたが完治しなかった。小学校入学後も視力は衰え続けていたが、父の教会で讃美歌とオルガンを練習し、婦人伝道者が休んだ際の代理で演奏する姿に感動した父と叔父により、音楽の道を歩むことになった。12歳で末木フサに弟子入りして箏を始め、大正10年東京盲学校(筑波大学附属視覚特別支援学校)に入学し、初代萩岡松韻と千布豊勢に山田流箏曲を師事。また田辺尚雄から音楽理論と作曲法を学んだ(学校の先輩には久本玄智がいた)。14歳で土井晩翠の「星と花」に曲を付け作曲家としての活動も開始。その時点ではまだ弱視だったが、20歳の時に盲学校の寄宿舎が新築された際、“新しい廊下を草履で歩くのはもったいない”と思い、手にした草履を下に置こうとして屈んだ瞬間に傘立ての突き出たところに両目を貫かれ、光を完全に失った。盲学校を卒業した昭和5年、東京・大崎で春和会を創立。その後も指導、演奏、作曲と活動を続け、20年東京大空襲の際には楽譜と点字本の詰まった20キロものトランクを抱えながら手引きされ逃げ回った。25年邦楽コンクールで「即興幻想曲」により第1位および文部大臣賞を受賞。59年に亡くなり、園松の名は娘の美和子に引き継がれた。作風は、習作時代と親しみやすい小品の作曲時代、芸術的な大作志向時代、前衛とエキゾティズムの混交時代、そして回顧的小編成時代と4つの時期に大別できる。他の作品に「神楽獅子を主題とする五重奏曲」「尺八・箏・十七絃三重奏曲」「ロボットの踊り」「中国風の旋律による幻想」「木管楽器と邦楽器の為の組曲」などがある。
- 所属団体
- 日本三曲協会,山田流箏曲協会
- 受賞
- 勲五等双光旭日章〔昭和56年〕 宮城賞(第3回)〔昭和34年〕「埋れた世界」,芸術祭奨励賞〔昭和41年・44年〕,点字毎日文化賞〔昭和56年〕,ゴールデン・ディスク賞(コロムビア)〔昭和57年〕 邦楽コンクール作曲部門第1位・文部大臣賞〔昭和25年〕「即興幻想曲」
- 没年月日
- 昭和59年 12月17日 (1984年)
- 家族
- 長女=山川 園松(2代目)
- 親族
- 叔父=鈴木 義男(法学者),義娘=山川 芳子(若樹会主宰)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報