山木村(読み)やまきむら

日本歴史地名大系 「山木村」の解説

山木村
やまきむら

[現在地名]筑波町山木

水守みもり村の東に所在。古くは八巻やまきと称したといわれる。村域の山木古墳群は一〇基からなり、直刀・玉・土師器須恵器などの出土をみており、桜川周辺開発に関与した豪族の存在が知られる。

中世には田中たなか庄内で、小田氏流山木氏の居所ともいわれるが、永禄七年(一五六四)七月二日の佐竹義昭感状(歴代古案)によれば「沼崎之郷、前野郷佐村并山木」の地が佐竹氏から北条丹後守高広に与えられており、さらに同年の小田氏治寄進状(日下部勝彦文書)には、

<資料は省略されています>

とあって、小田氏領も存在したと考えられる。元和八年(一六二二)には、大名堀利重領となり、安永五年(一七七六)の山木村明細帳(同文書)によれば村高四二五・九九九石のほか、新開田畑分六〇・三三九石。

山木村
やまきむら

[現在地名]韮山韮山山木にらやまやまき

金谷かなや村の北に位置する。中世は山木郷と称された。韮山城には山木口があり、城下町の形態がみられる。近世初期は韮山城主内藤信成領で、慶長二年(一五九七)検地を受けている(鈴木家文書)。同六年から幕府領として幕末に至る(韮山町史)。天保九年(一八三八)の山木村・滝山村明細帳(鈴木家文書)では当村の高二五一石余、田方一五町余・畑方四町四反余、上田反別が七割以上で、生産力は高い。家数七九・人数三五一、ほかに僧三、馬一四・牛二。用水はどう川を中心に用水堀溜池を用いた。臨済宗香山こうざん寺・浄土宗浄念じようねん寺、山王氏神・兼隆かねたか神社がある。

山木村
やまきむら

[現在地名]市原市山木・若宮わかみや

八幡やわた村の南東に位置し、伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。しろうち外白船そとしらふねを含む一帯を中世城館跡とみて白船城跡とし、市原真常の在城を伝えるが未詳。天正一八年(一五九〇)五月の豊臣秀吉禁制(榊原家文書)に市原庄内として「屋ま紀」とみえる。治承四年(一一八〇)源頼朝が市原八幡宮(現飯香岡八幡宮)に寄進した神田のなかに市原庄山木村五町が含まれていたという(元禄一〇年「飯香岡八幡宮由緒本記」飯香岡八幡宮蔵)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三三八石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android