山本 直忠(読み)ヤマモト ナオタダ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「山本 直忠」の解説

山本 直忠
ヤマモト ナオタダ


職業
作曲家 指揮者

肩書
南山大学教授

別名
筆名=流泉

生年月日
明治37年 7月22日

出生地
東京市 麹町区(東京都千代田区)

学歴
ライプツィヒ音楽院〔昭和2年〕修了

経歴
父は三笠ホテル創業者である実業家山本直良、母は小説家・有島武郎の妹で、三男として生まれる。両親は宝生流の謡に親しみ、母はピアノも弾いた。暁星中学に在学中、幸田延近衛秀麿師事。また一時期山田耕筰の下でも学んだ。卒業後の大正11年ドイツに留学。13年ライプツィヒ音楽院に入学。13年11月からはリーデルフェラインに参加、14年11月にはゲヴァントハウス合唱団に日本人として初めて在籍した。昭和3年帰国、新交響楽団(NHK交響楽団)による山本直忠帰朝記念管弦楽演奏会で指揮者デビュー。また、個人誌「耳と目」を創刊した。5年新興作曲家連盟の結成に参加、14年グレゴリアン音楽学会が創立されると理事につき聖歌の指揮などを行った。16年日本音楽文化協会の結成に関わり、理事に就任。また井上房一郎の創設した高崎市民オーケストラ(群馬交響楽団)の初代常任指揮者を務め、映画化もされた(今井正監督「ここに泉あり」)。20年日本音楽文化連盟に参加。25年受洗し、この前後から聖イグナチオ教会、聖アンセルモ教会の聖歌隊を指導し始め、晩年まで続けた。同年渡辺浦人、渡辺茂金井喜久子、小山清茂らと白濤会を結成、26年の発表会において「ピアノと八重奏のための音詩」を初演。31年以後「公教聖歌集」改訂委員会の中心人物として活動。32年男声聖歌隊の充実を目的に聖楽研究会を発足させ、会長として指導にあたった。37年にはベートーヴェン「合唱付」演奏を行うため名古屋オーケストラ連盟を結成、指揮者として活動するも、40年「レクイエム」を絶筆に、脳出血で急逝した。教育者としては東京高等音楽学院(国立音楽大学)管弦楽団指揮者兼教授、自由学園音楽指導、日本大学芸術科講師、南山大学教授を務めた。

受賞
音楽コンクール作曲部門第1位(第3回)〔昭和9年〕「管弦楽のための〈青春時代〉」

没年月日
昭和40年 5月9日 (1965年)

家族
息子=山本 直純(作曲家・指揮者),父=山本 直良(実業家),祖父=有島 武(実業家),孫=山本 純ノ介(作曲家),山本 祐ノ介(チェロ奏者・指揮者)

親族
伯父=有島 武郎(小説家),従兄弟=森 雅之(俳優),山内 静雄(映画プロデューサー)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「山本 直忠」の解説

山本 直忠
ヤマモト ナオタダ

昭和期の作曲家,指揮者 南山大学教授。



生年
明治37(1904)年7月22日

没年
昭和40(1965)年5月9日

経歴
昭和5年新興作曲家連盟の結成に参加、9年日本現代作曲家連盟と改称、国際現代音楽協会日本支部として15年まで活動した。後、国立音楽大学教授、日本大学芸術科講師を経て、南山大学教授を務める。また群馬交響楽団の創設に尽力し、初代指揮者を務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android