日本歴史地名大系 「山科本願寺跡」の解説
山科本願寺跡
やましなほんがんじあと
〔創建〕
〔造営次第〕
建物の造営は「蓮如上人遺徳記」「帖外御文」によれば、文明一〇年一月から開始されている。最初に和泉国より「小坊」を移築し、ついで馬屋、翌一一年には庭園・向所・寝殿も建てられた。同一二年には御影堂の建立に着手し、「正月ニ御影堂御建立アルヘキタメニ、先三帖敷ノ小御堂ヲカリ殿ニソ立給ケル」(拾塵記)と、まず小御堂から建てられ、河内の門徒が大和
〔寺構と寺内町〕
天文元年(一五三二)山科本願寺を訪れた鷲尾隆康は、その日記「二水記」八月二四日条に「尤寺中広大無辺、荘厳只如仏国云々、在家又不異洛中、居住之者各富貴、仍家々嗜随分之美麗云々」と記すが、これは寺内町を含めての記述である。野村本願寺古御屋敷之図(光照寺蔵)によれば、第一郭御本寺・第二郭内寺内・第三郭外寺内の各々が土居と堀とで区画されている。また「本願寺作法之次第」によれば、鐘や太鼓が用いられ、寺内町住人の生活を規制する掟もつくられていた。
寺内町のことは、「蓮如上人一期記」に「山科ノ八町ノ町」、「天文日記」天文六年七月一三日条にも「八ちやうまち」とあり、八町からなっていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報