岩井谷村(読み)いわいだにむら

日本歴史地名大系 「岩井谷村」の解説

岩井谷村
いわいだにむら

[現在地名]勝山町岩井谷・岩井畝いわいうね

山間を縫って流れる月田つきだ川と岩井谷川の合流点付近の狭い河岸段丘上に位置する岩井谷と、皇子おうじから東方の吉備高原上の岩井畝を含む一帯を占める。東は月田本つきだほん村、南はかみ村、阿口あくち(現上房郡北房町)、北は若代わかしろ村。月田川に沿って東城とうじよう往来が通る。中世一帯は井原いわら郷と称された。王子権現社(現井原神社)の木造狛犬の墨書銘に、貞治六年(一三六七)一〇月二一日付で「井原郷王子社」とある。弘治三年(一五五七)仮託の美作国献上記(美作古簡集)によれば、井原郷として染花二枚を中原忠光が進上している。また広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)御師の檀那場で、文明一四年(一四八二)八月一〇日の檀那村書(肥塚家文書)に「いわら」とみえるほか、年未詳の檀那村書(同文書)に「井原 わうし 宿新九郎」、天文一四年(一五四五)二月吉日の檀那村付帳(同文書)に「いわら わうち村一ゑん 二郎ひやうへやと」「井原ノ内いわい村一ゑん こんのかミやと 同所ためまさ一ゑん」など当地一帯の地名が登場する。


岩井谷村
いわいたにむら

[現在地名]丹生川村岩井谷

乗鞍のりくら(三〇二六・三メートル)北西麓を占める村。同山から北西に向かって流れる岩井谷川流域に集落が点在し、同川はさらに池之俣いけのまた川を合せ大名子おおなご付近で小八賀こはちが川に合流する。同川の対岸旗鉾はたほこ村、東から南にかけては標高二〇〇〇メートル級の山々が連なる。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳に村名がみえ、日影ひかげ村などとともに高付される。同一八年郷帳では岩井谷村として三六石余。元禄検地反歩帳の高六四石余、畑八町九反余。


岩井谷村
いわいだにむら

[現在地名]西都市尾八重おはえ

猪窪谷いのくぼだに村の北、岩井谷川最上流域の山間部にあり、北西は尾八重谷おはえだに村。米良めら山のうち。元禄一〇年(一六九七)の肥後国絵図(永青文庫)に岩井谷とみえるが、「人居斗」とのみ記され高の記載はない。天保五年(一八三四)の米良山郷村高帳写(相良家文書)によると高三一石余、うち小物成高一八石余、延享三年(一七四六)高入れの焼畑雑穀高八石余、享和三年(一八〇三)高入れの焼畑雑穀高二石余、天保二年高入れの焼畑雑穀高一石余。


岩井谷村
いわいだにむら

[現在地名]神岡町岩井谷

南の森茂もりも村より峠越しに入る。現在の県道は森茂谷に沿って大きく迂回、森茂谷と岩井谷が合流する地点から岩井谷を遡行する。最奥部に三井金属の岩井谷鉱山があったが、現在は休山。元禄飛騨国検地反歩帳では高原たかはら郷に属し、高三石余、田二町三反余・畑七反余。「飛騨国中案内」では免二割四分八厘余、家数五(うち百姓四・門屋一)、家作は萱葺。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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