岩崎新田(読み)いわさきしんでん

日本歴史地名大系 「岩崎新田」の解説

岩崎新田
いわさきしんでん

[現在地名]和賀町岩崎新田

岩崎村南西に位置し、和賀川夏油げとう川に挟まれた平地段丘に立地。西方前塚見まえづかみ山・こまヶ岳・経塚きようづか山など奥羽山脈の山々が続いている。夏油川上流域の山間に夏油温泉・瀬美せみ温泉・水神みずがみ温泉がある。もとは岩崎村に含まれていた。寛文一二年(一六七二)盛岡藩主南部重信の代に重信舎弟たちに給地を分与するため、新田開発を計画。


岩崎新田
いわさきしんでん

[現在地名]加古川市尾上町池田

池田いけだ村内の「海岸付州いなつき」と称していた地を開発して成立した新田。寛政一一年(一七九九)北在家きたざいけ村喜右衛門を名義人として開発が始められ、享和三年(一八〇三)までに一千三五〇両を借金した(安政四年「開発出資人岩崎新田取り戻したき願」大歳家文書)。享和二年に高二八石六斗余、文政四年(一八二一)に高二五石三斗余、面積計五町一反余を高入れし岩崎新田と名付けられた(「岩崎新田買入地主申合規定書」同文書)。喜右衛門は岩崎姓を与えられた。その後新田の所有者が変更しているが、嘉永六年(一八五三)には岩崎八十左衛門が大歳藤七郎・梅谷三右衛門に対して新田の返還を求めている(前掲取り戻したき願)


岩崎新田
いわさきしんでん

[現在地名]西区千代崎ちよざき三丁目

北は九条くじよう村字寺島てらじま田地、東は木津きづ川に面する舟入と勘助かんすけ島の幕府番所(現大正区)、南は勘助島の幕府船蔵(現同上)、西は尻無しりなし川。西成にしなり郡に属し、もと葭原であった地を、明和年間(一七六四―七二)の末、九条村住人葭屋仁右衛門が開いた新田で、安永二年(一七七三)検地で高一七石余、幕府領(西成郡史)、幕末まで高の変化なし。なお寺島と勘助島は水路で隔てられていたが、元禄年間(一六八八―一七〇四)の大坂三郷町絵図によると同一二年水路の東部で二島がつながれ、当新田が開かれた頃には水路はほとんど消滅した。


岩崎新田
いわさきしんでん

[現在地名]市原市岩崎・岩崎西いわさきにし岩崎緑地いわさきりよくち

玉前たまさき新田の北、養老ようろう川の河口左岸に位置する。享保一三年(一七二八)の成立で、江戸の下村清兵衛が開墾の許可を受け、草刈くさかり村の多左衛門らに開発させた。同一七年および延享二年(一七四五)に検地を受け、初め清兵衛きよべえ新田と称していた(市原郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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