日本歴史地名大系 「岩槻城跡」の解説
岩槻城跡
いわつきじようあと
岩槻台地中央部東端の舌状台地上に所在する。元荒川およびその湿地帯を外堀として利用し、舌状台地の基部に空堀を切って孤立させた平城。一五世紀半ば頃に扇谷上杉氏家臣太田氏によって築かれた岩付城を前身とし、江戸時代は譜代大名の居城。明治四年(一八七一)廃城となる。築城伝説から
〔岩付城〕
中世の岩付城は享徳三年(一四五四)末に勃発した享徳の乱に古河公方足利成氏に対抗する拠点として、長禄元年(一四五七)に扇谷上杉持朝家臣太田道真(資清)によって築城されたとされる(鎌倉大草紙)。しかし永享一二年(一四四〇)七月結城合戦勃発に伴う武蔵村岡合戦に持朝が岩付から後詰の軍勢を出しているので(同書)、岩付は扇谷上杉家の所領で、そこに城館があった可能性が高い。太田氏による築城後は太田氏が城主として、資家―資家の子資頼―資頼の子資時―資時弟資正―資正の子氏資(資房)と続いた。
永正九年(一五一二)六月古河公方足利政氏は子の高基との内訌に敗れ、下野の小山政長を頼ったが、同一三年一二月そこを追われて常陸国
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報