知恵蔵 「岩田聡」の解説
岩田聡
北海道札幌南高校時代、アルバイトでためたお金と親の援助で、米国のIT企業、ヒューレットパッカード社のプログラムができる電卓を購入。当時からプログラミングの能力は高く、独学でゲームを作り始める。
高校卒業後は東京工業大に進学し、大学の入学祝でローンを組んで米コモドール社のマイクロコンピューターを入手。それでプログラムを作り、毎週末のように百貨店のパソコンコーナーに持って行ったところ、売り場の店員から誘われてソフト会社「ハル研究所」でアルバイトをするようになった。
大学卒業後はハル研究所に就職。1983年に任天堂から発売された家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」に衝撃を受け、出資元の企業を通して紹介してもらい、任天堂のゲーム開発に携わるようになった。
92年、ハル研究所が多額の負債を抱えて倒産。取締役開発部長だった岩田が、社長を引き受けて再建に乗り出した。全ての従業員と面談して会社の問題点を探り、改善を図る一方で、エース開発者としてアクションゲーム「星のカービィ」や「大乱闘スマッシュブラザーズ」などのヒット作を生み出し、6年ほどで立て直した。その経営手腕やプログラマーとしての能力を、当時の任天堂社長、山内溥(故人)に買われ、2000年に同社に入社する。この頃までは、経営に携わるかたわらで、休みの日などにプログラムのコードを書いていたという。
02年、42歳の若さで社長に就任。任天堂はその頃、ライバル社であるソニーの家庭用ゲーム機「プレイステーション」にゲーム機市場でのシェアを奪われ、苦境に立たされていた。岩田は新たなユーザーの掘り起こしを図ろうと、タッチパネル式液晶を採用した2画面の「ニンテンドーDS」や、リモコン式コントローラーで操作し、フィットネスなども楽しめる「Wii」を開発。その使いやすさや入りやすさなどから、幅広い年齢層でユーザーを獲得、いずれも世界で1億台を超える大ヒット商品となった。
また任天堂でも、従業員との面談を実施。ホームページで岩田自らがゲームの開発担当者らにインタビューする「社長が訊(き)く」シリーズを展開するなど、会社やゲームへの熱意を持って経営にあたった。
14年6月、胆管腫瘍(しゅよう)の手術を受けたことを公表し、療養のためその年の株主総会を欠席。その後復帰し、15年6月の株主総会には出席したが、体調を崩して入院、7月11日に55歳で亡くなった。スマートフォンの普及などに押されてゲーム機の販売が低迷、3月にこれまで慎重だったスマートフォンゲームへの参入に踏み切った矢先だった。
「天才プログラマー」としても知られた岩田の急逝は、ゲーム業界を始めとした多くの人に惜しまれ、欧米やアジアなどの海外メディアでも報じられた。米タイム誌(電子版)は「革命的な変化を恐れなかった」、英BBC放送(電子版)は「任天堂をモバイルゲーム分野で急成長させた」というように、その経営姿勢や功績が高く評価されている。
(南 文枝 ライター/2015年)
岩田聡
(2015-7-14)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報