江戸時代後期から明治期に至る京都画壇の一派。岸駒(がんく)に始まり,子の岸岱(がんたい)(1782-1865),養子岸良(1798-1852)が受けつぎ,祖風を守って四条派(円山四条派)に対抗した。岸駒の門人に岸連山(1804-59)が出,家法に四条派の写生画法を折衷して新生面をひらいた。さらに連山の養子となった岸竹堂(1826-97)は近代的な視覚も取りいれて幅広い画風を生み,幸野楳嶺,森寛斎と並ぶ明治期の京都画壇を代表する画家となったが,楳嶺門下に竹内栖鳳が,寛斎門下に山元春挙が出たのに比べ,逸材に恵まれずに終わった。岸家は代々有栖川宮家に仕え,1790年,1855年の御所造営に伴う障壁画制作に参画した。岸駒門下には横山華山,《画乗要略》(1831)を著した白井華陽が,連山門下には巨勢小石らが輩出した。
執筆者:鈴木 廣之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸後期から明治にかけての画派。始祖岸駒(がんく)(1839没)は表出性の強い画風で知られ、その長男岸岱(がんたい)(1782―1866)をはじめ、河村文鳳(ぶんぽう)、横山華山、『画乗要略』の著者白井華陽ら、多くの門弟を擁して京都画壇に一勢力を形成した。岸駒の養子岸連山(きしれんざん)(1804―1859)は四条派の画風を加味して癖の強い家風を変容させ、彼に学んでのち養嗣子(ようしし)となった岸竹堂(きしちくどう)(1826―1897)は、この派の特技である虎(とら)や鳥獣だけでなく、洋画の陰影や遠近法を取り入れた写実的な風景画なども描いている。実質的に岸派はこの竹堂をもって終わるが、竹堂は森寛斎、幸野楳嶺(こうのばいれい)らと並んで明治の京都画壇に重きをなした。また、望月派(もちづきは)の望月玉川も岸駒に学んで、四条派と岸派が融合した画風をみせている。
[星野 鈴]
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