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岸駒 がんく

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

岸駒
がんく

[生]寛延2(1749)/宝暦6(1756).金沢
[没]天保9(1838).12.5. 京都
江戸時代後期の画家。岸派の祖。加賀金沢の商家に出生。本姓は佐伯,のち岸,名は矩 (のり) ,のち駒。字は賁然。号は蘭斎ほか。幼少より画事を好み上洛。寛政2 (1790) 年禁裡造営の際,円山応挙らと障壁画の御用をつとめ,のち朝廷に仕え,文化6 (1809) 年息子の岱 (たい) と金沢城の障壁画を描く。

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デジタル大辞泉の解説

がん‐く【岸駒】

[1756~1838]江戸後期の画家。岸(きし)派の祖。加賀の人。字(あざな)は賁然(ひぜん)。号は同功館・可観堂など。南蘋(なんぴん)派の花鳥画を学び、円山派などの諸派を折衷し、京都画壇の中心となった。虎の図で有名。

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百科事典マイペディアの解説

岸駒【がんく】

江戸後期の画家。金沢の人。字は賁然。同巧館,可観堂と号す。狩野派沈銓を学び,さらに諸家の風を折衷して,覇気に富んだ花鳥画を開拓,一時京都画壇に重きをなした。岸派に岸岱〔1782-1865〕,岸連山〔1804-1859〕,河村文鳳横山華山〔1784-1837〕らがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

岸駒 きし-こま

がんく

岸駒 がんく

1756-1839* 江戸時代中期-後期の画家。
宝暦6年生まれ。岸派の祖。はじめ狩野派を,のち沈南蘋(しん-なんぴん)や円山派などの画風をまなぶ。鳥獣,とくに虎を得意とし,独自の画風を確立した。京都御所や金沢城の障壁画を制作。天保(てんぽう)9年12月5日死去。83歳。加賀(石川県)出身。本姓は佐伯。名は駒(こま),昌明。字(あざな)は賁然(ふんぜん)。通称は雅楽助。号は華陽,蘭斎など。作品に「老梅図襖」「虎に波図屏風」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

岸駒

没年:天保9.12.5(1839.1.19)
生年:宝暦6.3.15(1756.4.14)
江戸中・後期の画家。岸は姓,駒は名であるが,通常「がんく」と音読みにする。字は賁然,号は華陽,同功館。加賀国(石川県)金沢に生まれる。紺屋に奉公し,加賀染の仕事に従事,貧しかったため商家の看板をみて字を覚え,絵も独習したという。安永9(1780)年京都へ上り,本格的な絵画活動を始め,明清画,南蘋派,円山派などの画風を手当たりしだいに独学で学び,自己の画風を築いた。天明1(1781)年の「芭蕉鶏図」(遠山記念館蔵)には明清画の,同年の「楊柳翡翠図」(『国華』362号)には南蘋派の影響がみられる。同4年有栖川宮家の障壁画を描く。このころ雅楽介を称する。寛政1(1789)年御所造営に当たり,障壁画を制作。文化6(1809)年前田斉広の招きで,金沢城の障壁画を描き,諸派の画風を折衷して表出性と装飾性を融合させ,独自の画風を完成させた。岸派を形成して多数の門人を教育した。子の岸岱,河村文鳳,『画乗要略』を著した白井華陽,明治になって活躍した岸竹堂などが知られている。円山応挙亡きあとは呉春と人気を二分したが,自己顕示欲の強さは人々の顰蹙を買ったといわれている。特に画料の高いことは有名で,寺院の天井画を描いた折,「竜の画は岸か寄進かしらねども二百両とは高い天井」と狂歌ではやされた。また巧みに自分を売り込む術にたけ,初めて京に上ったとき,蘭斎と号したが,当時大坂では森蘭斎が活躍しており,岸駒はデビューするための方便として同じ号を名乗ったとする説もある。天保7(1836)年には従五位越前守にまで上った。虎を得意とし,代表作に「猛虎図」(前田家蔵),「虎に波図屏風」(東京国立博物館蔵)がある。また「霊猫図襖」(富山市郷土博物館蔵)は,画風高揚期である雅楽介時代の代表作。83歳で没したが,晩年みずから7歳を加算したため,90歳説もある。京都寺町今出川の本願寺に葬られた。<参考文献>富山美術館『特別展 岸駒/図録』

(河野元昭)

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世界大百科事典 第2版の解説

がんく【岸駒】

1749‐1838(寛延2‐天保9)
江戸後期の画家で岸派(きしは)の祖。岸は姓,駒は名。加賀国の生れ。生年には1756年(宝暦6)説もある。師承関係は明らかでないが,80年(安永9)京都に上り,初め岸矩(きしはじめ)と称し,蘭斎と号し,後に有栖川宮に仕えて雅楽助(うたのすけ)岸駒,字を賁然と改めた。1809年(文化6)前田斉広の招きで金沢に赴き殿中の障壁画を制作した。沈南蘋(しんなんぴん)風の花鳥画と豪放な山水,人物画に独自の画風をつくり,全盛期の円山,四条の両派に対抗して一家を成した。

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大辞林 第三版の解説

がんく【岸駒】

1756~1838) 江戸後期の画家。金沢に生まれ京都で活躍。沈南蘋ちんなんぴん派・円山派などを学び、筆法の鋭い装飾的な障屛画を描いた。岸派の祖。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

岸駒
がんく
(1749/56―1838)

江戸後期の画家。姓を岸、名を駒、字(あざな)を賁然(ひぜん)といい、同功館また可観堂と号する。加賀(石川県)の人。金沢の紺屋(こんや)に奉公しながら狩野(かのう)派の画を学び、1780年(安永9)京都に上って画家としてたつ。当時蘭斎(らんさい)と号して沈南蘋(しんなんぴん)風の花鳥画を描いていたが、その後、円山派などを折衷してあくの強い独自の写生的画風をつくりあげた。84年(天明4)有栖川宮(ありすがわのみや)家の侍臣となり雅楽助(うたのすけ)と称し、90年(寛政2)の禁裏造営に際し障壁画を描く。のち宮廷に仕えて1836年(天保7)には越前守(えちぜんのかみ)にまで上るほどに名利を得たが、その傲岸(ごうがん)な性格と画料に対する貪婪(どんらん)さは人々のひんしゅくを買ったといわれる。鳥獣を描くことを好み、わけても虎(とら)はその得意とするところで『虎に波図屏風(びょうぶ)』(東京国立博物館)などの作品を残している。岸(きし)派を継承した画家に岸岱(がんたい)、岸竹堂(ちくどう)がいる。[星野 鈴]

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