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日本画家。京都に生まれる。本姓は安田。本名は直豊。字(あざな)は思順。号は楳嶺。別号に鶯夢、長安堂、鶴鹿園などがある。9歳で円山(まるやま)派の中島来章(らいしょう)の門に入り、梅嶺と号した。その後さらに四条派の塩川文麟(ぶんりん)につき、号を楳嶺と改めた。明治維新のころは極貧であったが、漢籍を神山鳳陽に学び、また文人と交わり、中西耕石、前田暢堂に南画を学んで一家をなし、とくに花鳥画を得意とした。1880年(明治13)に望月玉泉(ぎょくせん)らと京都府立画学校を設立し、出仕した。また京都青年絵画研究会、京都美術協会を組織するなど、日本画の発展と後進の指導に尽力した。その門より京都画壇を代表する竹内栖鳳(せいほう)、菊池芳文(ほうぶん)、川合玉堂、都路華香(つじかこう)、上村松園(うえむらしょうえん)らの画家が多数輩出した。93年に帝室技芸員となった。
[玉蟲玲子]
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(佐藤道信)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…本名恒吉,はじめ棲鳳と号した。京都市中京区の料理屋に生まれ,14歳で土田英林の手ほどきを受けるが,17歳より円山四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)(1844‐95)の門に入って画才を認められ,つねに師と行動を共にする。新古美術会,日本青年絵画共進会,日本絵画協会などに出品して名声をあげ,1889年京都府画学校出仕,99年には京都市立美術工芸学校の教諭に推された。…
… 円山四条派は以後も命脈を保ち,近代日本画の確立に大きな役割を果たした。幕末期活躍した画家に円山派の中島来章(1796‐1871)と四条派の塩川文麟(1808‐77)があり,前者の門に川端玉章が現れ,両者に学んだ幸野楳嶺(ばいれい)(1844‐95)は創作とともに教育に力を尽くし,その門から菊池芳文(1862‐1918),三宅呉嶠(ごきよう)(1864‐1919),竹内栖鳳,谷口香嶠(こうきよう)(1864‐1915)ら逸材が輩出した。円山派の森寛斎(1814‐94)や鈴木百年(1825‐91)・松年(1849‐1918)父子も幕末明治期京都画壇の大家として活躍した。…
※「幸野楳嶺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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