改訂新版 世界大百科事典 「円山四条派」の意味・わかりやすい解説
円山四条派 (まるやましじょうは)
江戸中期に興った絵画の流派。円山応挙が開いた円山派と呉春が興した四条派の総称。18世紀中ごろ狩野派や土佐派をはじめとする伝統的画派は形式化に陥り,また琳派は尾形光琳のあと卓越した画家に恵まれず,創造性を枯渇させていた。これに対し,京都を中心に多くの進取の気性に富む画家が真の絵画のあり方を模索していたが,その方向は三つに大別できる。第1は南画(文人画)へ,第2は伊藤若冲,曾我蕭白ら表出性の強い画家群へ,そして第3は写生を重視する円山派へと発展した。この基盤として,本草学に象徴されるような当時の文化全般にわたる客観的実証的傾向が指摘できよう。
応挙ははじめ狩野派の一分派である鶴沢派に学んだが,玉条とすべきは粉本でなく写生であることに開眼,これを基礎として新画風の確立へ向かった。彼の写生には典型的形態を求める傾向があったが,これを徐々に強め,画題,構成,空間表現,画面形式などにおける伝統性をも尊重しつつ,平明で温雅な装飾的画風を打ち立てた。この過程で写生と密着していた付立て(つけたて),片ぼかしなどの技法が整備完成されていったことも見逃せない。この新様式は保守化に向かっていた京都上層商人層の迎えるところとなり,宮中にも庇護者を増やしたが,応挙の個人的性格ともあいまって多くの弟子を吸引し,円山派が形成された。応挙が指揮した寛政度造営御所の障壁画では一門が大活躍している。門下の代表的画家に十哲と呼ばれる源琦(げんき),長沢蘆雪,渡辺南岳(1767-1813),森徹山(1775-1841),西村楠亭(1775-1834),山口素絢,奥文鳴(?-1813),吉村孝敬(1769-1836),山跡鶴嶺(生没年不詳),僧月僊のほか,応挙を継いだ長男応瑞(1766-1829),木下家を継いだ次男応受(1777-1815)がいる。応挙様式はまた岸駒,森狙仙,原在中ら円山派以外の画家にも大きな影響を与え,19世紀京都画壇の隆盛をもたらした。
呉春ははじめ与謝蕪村に学んだが,その後応挙の直接的影響を受けて写生風に転じ,両者を融合,付立て,片ぼかしの技法を洗練しつつ俳諧に通い合うきわめて軽妙洒脱な画風を創出した。この新様式も広く愛好され,応挙没後は円山派を抑えて隆盛を誇るようになった。四条高倉に住していた呉春をはじめ,この派の画家が多く四条通りに集まっていたため,四条派と呼ばれるようになった。最初は蔑称であったものが,のち正式の流派名になったという。代表的画家に呉春の異母弟で流派の確立者となった松村景文のほか,長山孔寅(こういん)(1765-1849),佐久間草偃(そうい)(?-1828),柴田義董(1780-1819),岡本豊彦(1773-1845),山脇東暉(1777-1839)らがいる。
円山四条派は以後も命脈を保ち,近代日本画の確立に大きな役割を果たした。幕末期活躍した画家に円山派の中島来章(1796-1871)と四条派の塩川文麟(1808-77)があり,前者の門に川端玉章が現れ,両者に学んだ幸野楳嶺(ばいれい)(1844-95)は創作とともに教育に力を尽くし,その門から菊池芳文(1862-1918),三宅呉嶠(ごきよう)(1864-1919),竹内栖鳳,谷口香嶠(こうきよう)(1864-1915)ら逸材が輩出した。円山派の森寛斎(1814-94)や鈴木百年(1825-91)・松年(1849-1918)父子も幕末明治期京都画壇の大家として活躍した。
執筆者:河野 元昭
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