峅寺村(読み)あしくらじむら

日本歴史地名大系 「峅寺村」の解説

峅寺村
あしくらじむら

[現在地名]立山芦峅寺

常願寺川上流右岸段丘上に位置。立山道が通る。蘆峅・葦峅・足倉などとも記された。古くから常願寺川下流の岩峅寺いわくらじ村とともに立山山中に修行する行者の活動拠点として開けた。鎌倉時代に増補された「伊呂波字類抄」十巻本の巻四(立山大菩薩)に「慈興聖人建立者、自天河北三所上芦峅寺、根本中宮、横安楽寺」とあり、当地には立山信仰の拠点寺院芦峅寺(中宮寺)があった。鎌倉時代後半になると、行者は同寺を中心に宗教村落を構成したとみられる。文明三年(一四七一)一一月一六日の土肥将真寄進状(芦峅寺文書、以下同文書は省略)に「あし倉衆徒・名主御中」とみえ、土肥将真は芦峅寺に功徳湯料として一段を寄進している。同七年五月二一日の神保長誠寄進状には「芦峅百姓中」とあるらしく、修験者のほか百姓も居住していたとみられる。

当地にはうば堂・地蔵堂・閻魔えんま堂などがあり、桃井氏・椎名氏・神保氏らの保護を受け、同時に当地の衆徒も大きな勢力を有するようになった。文明七年五月、芦峅百姓に対し、神保長誠は立山権現造営のため材木を寄進し(前掲神保長誠寄進状)、神保氏の被官寺嶋誠世らは杣山伐尽しのため年貢銭を免除している(寺嶋誠世・宗綱連署奉書)。同八年一二月一三日の寺嶋誠世奉書では須江すえ庄の内とされ、神保氏の被官寺嶋氏が芦峅百姓に講堂灯明料として六間屋敷地子などを寄進している。永禄七年(一五六四)本宮ほんぐう(現大山町)・芦峅・条村の三ヵ村が逃散盟約を結んだが、その署名には「蘆峅八人衆」とある(同年九月一六日条村・本宮村・芦峅盟約状)。同一一年二月、寺嶋職定は芦峅門前百姓中に対し商人が当地から信州へ抜けることを禁ずることを伝え、三月には陣取の用意を申付けている(二月二六日寺嶋職定書状)。翌一二年には当地百姓の公用などを一部免除したが(同年閏五月二〇日寺嶋職定免除状)、同時期には芦峅村と称された(同一三ママ年一二月五日寺嶋職定下知状)。当地にあった堂を中心とする諸堂は戦乱のため荒廃することも多かったが、越中の武将らによって復興された。戦国時代末、越中を支配した佐々成政は立山を信仰すること厚く、芦峅寺・岩峅寺(立山両峅)の堂塔を復興して寺領を安堵し、衆徒に祈祷などの宗務を精励させた。その後、加賀能登・越中を支配することとなった前田利家も天正一六年(一五八八)堂に一〇〇俵の地を寄進し、立山中宮寺衆徒社人中に対し寺務・諸堂の修理・勧行の励行を申渡している(同年一一月晦日「前田利家寄進状」成巽閣蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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