新撰 芸能人物事典 明治~平成 「島崎赤太郎」の解説
島崎 赤太郎
シマザキ アカタロウ
- 職業
- 音楽教育者 オルガン奏者 作曲家
- 生年月日
- 明治7年 7月9日
- 出生地
- 東京・京橋新湊町
- 学歴
- 東京音楽学校(東京芸術大学)本科専修部〔明治26年〕卒
- 経歴
- 少年時代に一家がクリスチャンとなったことから、オルガンを知る。のち父は内国勧業博覧会にオルガンを出品したが、その時は我が国における洋楽器の先駆者・山葉寅楠が最高位を受けた。明治22年東京音楽学校(東京芸術大学)に入学し、ルドルフ・ディットリヒらの指導を受ける。在学中からオルガン奏者として活躍し、明治26年同校卒業後は授業補助教員兼研究生となる傍ら各種の演奏会に出演した。31年明治音楽会が発足すると主要メンバーの一人となり、同会の演奏会に出るだけでなく夏期休暇を利用して関西でも演奏を行う。32年に刊行した「オルガン教則本」(全2巻)は100以上も版を重ねるロングセラーとなり、のちの演奏家たちに大きな影響を与えた。34年皇后の御前演奏に際しては、サン=サーンスの「ロマンス」を幸田延、橘糸重と共演。一方で作曲も行い、「春が来た」(井上武士の説による。岡野貞一作曲とする説もある)「たこの歌」「犬」「月」などの唱歌を作曲したほか、「唱歌教科書」の編纂にも携わった。同年文部省給費留学生として渡独し、同地で病気に倒れた滝廉太郎の帰国を支援したのち、ライプツィヒ王立音楽院に入ってパウル・ホーマイエルにオルガンを、フーゴ・リーマンに音楽理論を学ぶ。39年に帰国してからは東京音楽学校教授となり音楽理論を教え、オルガン普及に尽力。42年国定教科書「尋常小学唱歌」の編纂委員に任ぜられ、以後、文部省による多くの唱歌教科書、読本、伴奏楽譜の編纂・校閲を手がけ、日本の唱歌の黎明期に大きな役割を果たしたが、その唱歌のあり方については田辺尚雄、田村虎蔵らと意見を異にし、たびたび論争した。同年94小節から成る4声フーガ「ハルモニウム及びオルガン用フーガ」を作曲。また大正4年の「御立太子礼奉祝合唱歌」、昭和2年の大正天皇の「御大喪の歌」などといった公式的な歌や立教大学、十文字学園、西南学院、山形師範学校などの校歌、浄土真宗の宗歌も書いており、作曲界でも重きを成した。2年に日米の間で人形が交換された際の公式歌2曲も作曲している。日本教育音楽協会理事長なども務めた。5年同校を退職。同年昭和天皇の歌「最上川」に曲をつけたものが山形県民歌に指定された。8年母校のピアノで作曲中に急死。葬儀委員長は岡野貞一が務めた。他の作品に「二重フーガ」「カノン」、歌曲「水」「大日本」など、著訳書に「リードオーガン・アルバム」「新訳律氏和声学解題」「詳解楽語辞典」「対位法教科書」などがある。
- 受賞
- 勲三等瑞宝章〔昭和3年〕
- 没年月日
- 昭和8年 4月13日 (1933年)
- 家族
- 長男=島崎 政太郎(画家)
- 伝記
- オルガンの文化史 赤井 励 著(発行元 青弓社 ’06発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報