崇源院(読み)スウゲンイン

デジタル大辞泉 「崇源院」の意味・読み・例文・類語

すうげん‐いん〔‐ヰン〕【崇源院】

[1573~1626]徳川秀忠の妻。名はごう。父は浅井長政。母は織田信長の妹小谷おだにの方。姉は淀君。浅井氏滅亡後、柴田勝家に嫁いだ母とともに越前に移り、柴田氏滅亡後は豊臣秀吉の保護を受ける。文禄4年(1595)、徳川秀忠継室となり、のちに家光千姫らを産む。没後に贈従一位。

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関連語 げんいん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「崇源院」の意味・わかりやすい解説

崇源院
すうげんいん
1573―1626

徳川秀忠の室。家光の生母。お江与(えよ)の方、お江(ごう)、小督(おごう)などとよばれる。諱(いみな)は達子(たつこ)。近江小谷(おだに)城主浅井長政(あさいながまさ)の三女で、母は織田信長の妹小谷(お市)の方。1573年(天正1)、信長によって包囲された小谷城落城の際、母、二人の姉、お茶々(豊臣秀吉側室淀殿(よどどの))、初(京極高次(きょうごくたかつぐ)室常高院(じょうこういん))とともに脱出、信長に養われる。母の再婚によって柴田勝家(しばたかついえ)の越前北庄(きたのしょう)城に移るが、1583年、秀吉と対立し敗れた勝家は自害、母もそれに続く。姉とともに秀吉に養われ、尾張大野城主佐治一成(さじかずなり)と結婚し、秀吉の意向によって離縁。秀吉の養女となって羽柴秀勝(はしばひでかつ)と結婚するが、秀勝は朝鮮に出陣し没する。1595年(文禄4)、徳川秀忠と結婚。家光、忠長(ただなが)、千姫、和子(後水尾天皇(ごみずのおてんのう)中宮東福門院(とうふくもんいん))ら2男5女を生む。江戸城で没後、従一位(じゅいちい)を贈られる。

[真下道子]

『西岡虎之助著『日本女性史考』新装版(1983・新評論)』

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改訂新版 世界大百科事典 「崇源院」の意味・わかりやすい解説

崇源院 (すうげんいん)
生没年:1573-1626(天正1-寛永3)

江戸前期,将軍徳川秀忠の正室。江与の方。於江,小督,達子ともいう。浅井長政の三女,母は織田信長の妹小谷方。豊臣秀吉の側室淀殿,京極高次の室常高院の妹にあたる。はじめ尾張大野城主佐治与九郎一成に嫁したが,秀吉の意向で羽柴小吉秀勝と再婚。秀勝が朝鮮へ出陣して病死の後,1595年(文禄4)秀忠に嫁いだ。秀忠との間に家光,忠長,東福門院和子(まさこ)など2男5女をもうけた。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「崇源院」の解説

崇源院 すうげんいん

1573-1626 織豊-江戸時代前期,徳川秀忠の正室。
天正(てんしょう)元年生まれ。浅井長政と小谷(おだに)(お市)の方の3女。豊臣秀吉の側室淀殿(よどどの)の妹。文禄(ぶんろく)4年秀吉の養女として,6歳年下の秀忠に再々嫁した。千姫,家光,忠長,和子(東福門院)ら2男5女を生んだ。寛永3年9月15日死去。54歳。名は達子。通称はお江与,お江(ごう),小督(おごう)。

崇源院 そうげんいん

すうげんいん

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