精選版 日本国語大辞典 「千姫」の意味・読み・例文・類語
せん‐ひめ【千姫】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
(久保貴子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
徳川2代将軍秀忠(ひでただ)の長女。母は正室浅井氏お江(ごう)(崇源院(すうげんいん))。1598年(慶長3)病床にあった豊臣(とよとみ)秀吉は嗣子(しし)秀頼(ひでより)と家康の孫女千姫との婚約を結んだ。この約束は守られ、1603年(慶長8)7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁した。家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣に千姫は大坂城にこもっていたが、15年(元和1)5月、落城の前夜脱出し、家康の陣営に至り、ついで江戸に送られた。翌年伊勢(いせ)桑名(くわな)城主本多忠政(ただまさ)の長子忠刻(ただとき)に再嫁し、忠政が姫路へ転封となったので忠刻とともに姫路城に居することとなった。26年(寛永3)忠刻は父に先だち病没したので、千姫はふたたび江戸城に戻り、落髪して天樹院と称し、城内の竹橋御殿に住した。大坂城脱出の際、坂崎出羽守直盛(でわのかみなおもり)が救出に功があり、千姫を与えるといわれたとして、千姫再嫁のときに騒動を起こし殺害された事件は著名である。忠刻没後、千姫は乱行をほしいままにしたという話もあるが、虚説である。
[林 亮勝]
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1597.4.11~1666.2.6
徳川秀忠の長女。母は浅井長政の女崇源院。1603年(慶長8)7月豊臣秀頼に嫁した。15年5月豊臣氏滅亡の際,大坂城を脱出。16年(元和2)伊勢国桑名藩主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁し,化粧料10万石が与えられた。翌年姫路に移る。1男1女を生むが男子は夭折。26年(寛永3)忠刻没後落飾して天樹院と号し,江戸竹橋門内に住居した。弟徳川家光の厚遇をうけて勢力をもつ。また家光の要請でその次男綱重の養育にあたった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…縁切寺はアジールの残存と考えられ,江戸時代初期尼寺には一般に縁切寺的機能があったと思われるが,中期以降になると鎌倉松ヶ岡の東慶寺と上州(群馬県)勢多郡徳川郷の満徳寺の2ヵ寺のみに限られた。両寺が江戸時代を通じて縁切寺たりえたのは,徳川家康の孫娘千姫にかかわる由緒による。東慶寺は千姫が助命をかなえた秀頼の息女天秀尼の入寺に当たって家康が特別許可を与え,満徳寺は千姫自身が入寺し,離婚後再婚した例にならって,両寺とも開山以来の縁切寺法の特権が再確認されたゆえと伝えられている。…
…翌年正四位下左近衛少将,ついで参議,右近衛中将,92年(文禄1)従三位権中納言と昇進,在京時以外は主として江戸城にあって,政務に奔走する父家康の留守を支えた。94年再び秀吉の意志により浅井長政の三女江与(えよ)(於江(おごう),逵子(みちこ)とも,法号崇源院)と結婚,97年(慶長2)長女千姫をもうけ,翌年秀吉の死に先立ち秀吉の子秀頼と千姫の婚約が成立,秀忠の政治的地位は重みを増した。1600年関ヶ原の戦に東山道を西上したが,信州上田城の真田昌幸に遮られて決戦にまにあわず,家康の叱責を受けた。…
…町域西端,治田峠の東麓付近一帯は,かつて銀,銅を産し,鉱山町が栄えた。1615年(元和1)徳川秀忠の娘千姫が桑名の本多忠刻に再嫁した際,治田鉱山はその化粧料にあてられている。中心集落の阿下喜は員弁川上流域の谷口集落で,員弁郡北部の物資集散地として発展し,桑名までの舟運もあった。…
※「千姫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
1/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
12/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新