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崔浩 さいこうCui Hao; Ts`ui Hao

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

崔浩
さいこう
Cui Hao; Ts`ui Hao

[生]前秦,建元17(381)
[没]太平真君11(450)
中国,北魏の宰相。清河 (河北省) の名家出身。明元帝や太武帝に仕え,ついに国政の実権を握るにいたった。みずから道教を信仰するとともに,儒教的な秩序を打立てることを理想として,太武帝に廃仏を断行させた。漢人官僚の代表者であった彼は,魏の国史編纂に際しても漢族中心の立場で書いたため鮮卑族の反感を買い,太武帝に誅され,その処刑は一族,姻戚にも及んだ。

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世界大百科事典 第2版の解説

さいこう【崔浩 Cuī Hào】

?‐450
中国,北魏の官僚。清河(河北省清河県)の名族。父の崔宏(玄伯)は北魏帝国の制度草創に貢献した。崔浩は字を伯淵,学識は当代随一といわれ,その識見による判断の的確さから明元・太武2帝の信任を受けた。とくに太武帝の政治顧問をつとめて,華北統一戦争をことごとく成功にみちびいた。しかし漢族社会の貴族制を性急に導入しようとしたこと,国史編纂を総裁して国事を直筆したことなどが鮮卑人のあいだに反感を招き,部下や親戚ともども誅された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

崔浩
さいこう
(381―450)

中国、北魏(ほくぎ)の政治家。字(あざな)は伯淵(はくえん)。南北朝時代の一流漢人貴族である清河(せいが)郡(河北省)の崔氏の出身。父(宏)の代から名望家としての力量と行政的手腕を見込まれ、鮮卑(せんぴ)系の北魏王朝に仕えた。崔浩は色白で美婦人のような容貌(ようぼう)でありながら、経書、史書、法律、天文、陰陽の学に通じ、計謀にたけていた。太武帝の時代には帝を補佐して華北統一に貢献し、北魏において漢人として初めて司徒の官(官僚の最高位の一つ)にまで上った。権力の枢要に座った崔浩は、胡(こ)風を除去して漢的社会を回復しようと試み、漢人官僚を多数登用し、律令を改定し、暦をつくり、宗教を統制した。西域(せいいき)伝来の仏教を排斥して寇謙之(こうけんし)の道教を国家宗教としたのもその一連である。しかし、彼の強引なやり方はやがて鮮卑系貴族の反発を買い、彼が編纂(へんさん)した北魏の国史に鮮卑を侮辱する記述があると弾劾され、族誅(ぞくちゅう)の刑を受けた。崔浩父子は范陽(はんよう)の盧氏(ろし)とともに書においても評価が高かった。[佐藤智水]

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