日本大百科全書(ニッポニカ) 「崔浩」の意味・わかりやすい解説
崔浩
さいこう
(381―450)
中国、北魏(ほくぎ)の政治家。字(あざな)は伯淵(はくえん)。南北朝時代の一流漢人貴族である清河(せいが)郡(河北省)の崔氏の出身。父(宏)の代から名望家としての力量と行政的手腕を見込まれ、鮮卑(せんぴ)系の北魏王朝に仕えた。崔浩は色白で美婦人のような容貌(ようぼう)でありながら、経書、史書、法律、天文、陰陽の学に通じ、計謀にたけていた。太武帝の時代には帝を補佐して華北統一に貢献し、北魏において漢人として初めて司徒の官(官僚の最高位の一つ)にまで上った。権力の枢要に座った崔浩は、胡(こ)風を除去して漢的社会を回復しようと試み、漢人官僚を多数登用し、律令を改定し、暦をつくり、宗教を統制した。西域(せいいき)伝来の仏教を排斥して寇謙之(こうけんし)の道教を国家宗教としたのもその一連である。しかし、彼の強引なやり方はやがて鮮卑系貴族の反発を買い、彼が編纂(へんさん)した北魏の国史に鮮卑を侮辱する記述があると弾劾され、族誅(ぞくちゅう)の刑を受けた。崔浩父子は范陽(はんよう)の盧氏(ろし)とともに書においても評価が高かった。
[佐藤智水]