中国,北魏の第3代皇帝,世祖拓跋燾(たくばつとう)(鮮卑名仏狸)。在位423-452年。第2代明元帝の長子。明元帝の治世は道武帝被弑後の混乱を収拾するため内政の整備につとめたが,太武帝はその基盤の上に再び対外伸長を図った。北方の柔然に打撃を与えたのち,漢人貴族崔浩(さいこう)を顧問として夏,北燕,北涼をつぎつぎに平定,遼東から河西に及ぶ華北全域を統一して五胡十六国の分立時代に終止符を打った。かくて長江(揚子江)北岸まで南進して宋をおびやかしたが,これは一時的作戦に終わった。帝はまた崔浩の推挙によって道士寇謙之を尊信し,その唱導する新天師道を国教に定め,440年太平真君と改元,442年には天師道場で符籙(ふろく)を受けた。一方きびしい廃仏を断行したが,これらの背景には帝権強化の意図があった。帝は倹約を尊び,才能を重んずる開明君主であったが,大臣を誅殺するなど独裁的傾向があり,皇太子晃を憂死させるに至った。晃の死が原因となり帝自身が寵愛する宦官宗愛に弑され,北魏朝廷は再び混乱に陥った。
執筆者:谷川 道雄
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鮮卑(せんぴ)系拓跋(たくばつ)氏が建てた北魏(ほくぎ)王朝の第3代皇帝(在位423~452)。廟(びょう)号は世祖。名は燾(とう)、字(あざな)は仏貍(ふつり)。16歳で即位すると、鮮卑兵を主力とする国軍を督率して周辺諸国(夏(か)、北燕(ほくえん)、北涼(ほくりょう)、柔然(じゅうぜん))に侵略した。敵に臨んでは自ら士卒の先頭にたち、439年華北を統一した。その間よく臨戦体制を補佐した漢人官僚崔浩(さいこう)をブレーンとし、さらに崔浩の推挙により道士寇謙之(こうけんし)を寵用(ちょうよう)した。440年には年号を太平真君(たいへいしんくん)と改め、442年には道教の祭壇に昇って天の符籙(ふろく)(神秘な予言を記したもの)を授かるなど、道教を厚く保護した。ついで446年、崔浩の意見をいれて中国最初の仏教弾圧政策(太武の廃仏)を断行した。太武帝の時代は、北魏の鮮卑族支配層が遊牧封建制から中国的官僚制に移行する過渡期にあり、漢人官僚の登用が進められる一方、鮮卑系有力者の不満も蓄積していた。450年、崔浩が鮮卑を侮辱する国史を編纂(へんさん)したとして告発され刑死した象徴的な事件ののち、後継者問題が伏流するなかで、452年2月、宦官(かんがん)宗愛(そうあい)によって殺された。
[佐藤智水]
408~452(在位423~452)
北魏の第3代皇帝。本名は拓跋燾(たくばつとう)。夏,北燕,北涼などを滅ぼして華北統一を完成し,柔然(じゅうぜん),宋(南朝)にも打撃を与えた。宰相の崔浩(さいこう),道士の寇謙之(こうけんし)を信任し,道教を信じて,廃仏を行った。
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…これよりさき部落解散を断行して族長層の部落統率権を君主に集中したが,旧部族民はその後も漢族と異なるあつかいを受け,国軍の精鋭として征戦に活躍した。第3代太武帝は夏,北燕,北涼を征服して華北を統一し,五胡十六国時代を終わらせた。帝国の発展に伴って漢人貴族の政権参加も一般化し,北族中心の国家体制を改革する必要が生じた。…
…ついで老君の玄孫,牧土宮主から道書を授けられ,北方の太平真君を輔(たす)けて道教を宣布するよう命ぜられた。寇謙之はこうした宗教的体験をもとに北魏朝廷に接近し,太武帝の信臣崔浩を仲介として帝の尊崇を受けた。首都平城の東南に天師道場を起こし,また高大な静輪宮を営み道壇を築いた。…
※「太武帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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