日本歴史地名大系 「嶽村」の解説 嶽村たけむら 鹿児島県:日置郡郡山町嶽村[現在地名]郡山町嶽西俣(にしまた)村の西、上宮(じようぐう)岳(五五一メートル)の南麓、重平(しげひら)山(五二三・一メートル)の東麓の山地・丘陵に立地する。地内を南流する神之(かみの)川流域に平地が開け、平(ひら)・大中(おおなか)・西雪元(にしゆきもと)などの集落が散在している。江戸時代には伊集院(いじゆういん)郷に属していたが、万治二年(一六五九)島津光久は当村を家臣北郷久精(島津氏支族)に領知させた(伊集院由緒記)。明治二年(一八六九)の版籍奉還に至るまで同氏領(鹿児島県地誌)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高五四五石余。「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高四七六石余。旧高旧領取調帳では高四九六石余。 嶽村たけむら 熊本県:飽託郡河内町嶽村[現在地名]河内町岳(たけ)金峰(きんぼう)山の東北麓にあり、河内川が当村より流れ出し、その流域に集落が点在する。北は東門寺(とうもんじ)村・野出(のいで)村、西は面木(おものぎ)村に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によれば田方一二町六反一畝余・畠方五三町六反六畝余、分米三六三石九斗余。同一三年の検地帳によれば田方一三町八反五畝余・畠方五一町一反余、分米四四一石八斗余のうち一一石余が永荒、家数一三〇、男七三・女五六、馬六・牛一二で、嶽麓(がくろく)寺二畝、家三が記される。五町手永に属し、「国誌」に「上古閑村中古閑村下古閑村椎蔵村富塚村等ノ小村アリ」とある。文政八年(一八二五)の五町手永略手鑑では高四四三石六斗余、田九町三反四畝余・畑二五町一反三畝余である。 嶽村たけむら 岐阜県:加茂郡八百津町嶽村[現在地名]八百津町上吉田(かみよしだ) 嵩(たけ)譲葉(ゆずりは)村の北東にあり、北は平(たいら)村(現七宗町)。もと上吉田村の内で、元禄郷帳に高五七石余とある。「濃州徇行記」には釜(かま)ヶ嵩(たけ)とあり、高四五石余、「中嵩、下嵩と二組にわかる、みな山の交ひに居居ありて中嵩に十四戸ほど、下嵩に十戸ほどあり」と記される。 嶽村たけむら 長崎県:南松浦郡三井楽町嶽村[現在地名]三井楽町岳郷(たけごう)柏(かしわ)村の南に位置し、南に京(きよう)ノ岳がある。江戸時代は三井楽掛柏村の枝郷であったと考えられる。大村領内からキリシタンの移住があって開拓されたといわれ、寛文年間(一六六一―七三)二一九人、天明九年(一七八九)当時は五六八人であったという(「三井楽掛異宗徒人員数」五島編年史)。 嶽村だけむら 山口県:美祢市嶽村[現在地名]美祢市豊田前(とよたまえ)町嶽古烏帽子(ふるえぼし)村の西にあり、北は豊浦郡殿敷(とのしき)村(現豊田町)に接する山間の村。長府藩領で豊浦郡豊田筋に属した。麻生(あそう)の地が細分されて成立した村で(→麻生上村)、村名は「地下上申」にみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by