日本大百科全書(ニッポニカ) 「川俣正」の意味・わかりやすい解説
川俣正
かわまたただし
(1953― )
インスタレーション作家。北海道生まれ。1979年(昭和54)東京芸術大学美術学部油絵科卒業。1984年同大学院博士課程満期退学。デッサン力に秀(ひい)で、学部在学中の1976年に東京芸術大学安宅(あたか)賞を受賞するなど早くから将来を嘱望されるが、本人はドローイングや絵画を描くことへの興味を早々に失ってインスタレーションへと移行。1978年に東京・藍画廊で初個展「DISCUSSION」を開催し、1979~1980年に東京・神田、銀座界隈で次々と個展を開催した。川俣の代名詞ともいうべき木材を使ったインスタレーション作品は最初期のころから制作されていたものだが、これは木材という物質を生かした点で、1970年代をリードした動向である「もの派」からの強い影響をうかがわせる半面、ウェットな感情表現を一切行わず、あたかも木材を使ったドローイング作品のようなシャープで立体的な造形感覚によって明らかな相違を示していた。1980年には東京芸術大学サロン・ド・プランタン賞を受賞、また批評家藤枝晃雄(てるお)の目にとまり、彼が企画を担当していた「今日の作家」展(横浜市民ギャラリー)に出品したのをきっかけに川俣の名は美術界に広く知れわたり、多くの企画展に引っ張りだこになる。
1982年には美術評論家たにあらた(1947― )がコミッショナーを務めたベネチア・ビエンナーレの日本館代表作家に彦坂尚嘉(なおよし)(1946― )、北山善夫(1948― )と並んで選出され、パビリオンの外壁に木材を張り巡らせる作品を発表する。まだ大学院に在籍中の20代の若手作家としては異例の大抜擢で、これによって国際的な注目を集めた。東京・代官山の商業施設ヒルサイドテラスの再開発と連動したインスタレーション『工事中』(1984)でそれまでの活動に一区切りつけた後は、主な活躍の舞台を海外に移し、取り壊しの決まった建物に廃材を組み合わせたオランダ、ハーグの『スプイ・プロジェクト』(1986)、廃墟となった教会を廃材で覆ったドクメンタ8の『デストロイド・チャーチ』(1987、ドイツ、カッセル)、ニューヨーク、イースト・リバーの小島に所在する隔離病棟を廃材で覆った『プロジェクト・オン・ルーズヴェルト・アイランド』(1992)などのプロジェクトを実現した。これらのプロジェクトはいずれも、構築物が組み立てられるプロセスそのものを作品とする「ワーク・イン・プログレス」の手法に拠っているほか、街角の片隅にゲリラ的に介入しながら都市の歴史的、文化的コンテクストを暴(あば)いていく側面を持っており、廃墟や廃材を活用した空間の構築は建築にたとえられることも少なくない。
インターナショナル・ユース・ドローイング特別賞(ニュルンベルク、1982)、ACC奨学生(1984)、国際交流基金海外フェローシップ(1995)、日本文化芸術振興賞(1998)など多くの賞や助成を獲得。東京芸術大学先端芸術表現科教授を経て、フランス・エコール・デ・ボザール教授。福岡県の炭鉱町に鉄塔を建てる「コールマイン田川」プロジェクトに注力するなど、国内での活動にも大きな重点を置いており、2001年には水戸芸術館で大規模な個展「デイリーニュース」を開催、2005年には第2回横浜トリエンナーレの総合ディレクターを務めた。また、その独自の活動がアートの制度に対する強い不満や懐疑に依拠したものであることもよく知られており、そうした不満や懐疑は著書のタイトルとした「アートレス」という概念の中に集約されている。
[暮沢剛巳]
『『アートレス――マイノリティとしての現代美術』(2001・フィルムアート社)』▽『『Book in Progress』(2001・INAX出版)』▽『「特集=川俣正――拡大するアート・プロジェクトの全貌」(『美術手帖』1998年10月号・美術出版社)』