日本大百科全書(ニッポニカ) 「もの派」の意味・わかりやすい解説
もの派
ものは
1970年(昭和45)前後の日本で展開された美術運動。土、石、水などの素材にほとんど手を加えないインスタレーション制作を中心に展開された。現象学や場所論を理論的支柱とし、また当時の学生運動とも密接に関連しているなど、フランスの「シュポール/シュルファス」やイタリアの「アルテ・ポーベラ」など、同時代の海外の美術動向とも多くの共通点をもち、ミニマリズムの世界的趨勢(すうせい)の一環と位置づけることができる。当時をよく知る批評家峯村敏明(みねむらとしあき)(1936― )による「1970年前後の日本で、芸術表現の舞台に未加工の自然的な物資・物体を、素材としてではなく主役として登場させ、モノの在りようやモノの働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みた一群の作家たち」(「モノ派」展カタログより)という定義が一般化している。
この運動に関わった作家たちは、関根伸夫、吉田克朗(かつろう)(1943―1999)、成田克彦(1944―1992)、小清水漸(こしみずすすむ)(1944― )、菅木志雄(すがきしお)、李禹煥(りうふぁん/イウファン)らの「李+多摩美術大学系」を中心として、広義には、東京芸術大学出身の榎倉康二(えのくらこうじ)、高山登(1944―2023)らに、藤井博(1942― )、羽生真(はぶまこと)(1944― )が加わった「東京芸術大学系」、原口典之らの「日本大学芸術学部系」(横須賀グループともいう)なども含まれる。韓国からの留学生で、日本大学で哲学を学んだ李が若干年長なのを除けば、彼らはみな当時20代の若手であった。「李+多摩美系」の活動は1968年、関根が第1回神戸須磨(すま)離宮公園「現代日本野外彫刻展」で『位相―大地』を発表したころに始まる。地面に円筒状の穴を掘り、その横に掘った穴と同量同形の土を盛ったこの作品はものの「在ること」を直視することを意図したものであったが、この視点には関根が以前に助手を務めていた高松次郎の強い影響を指摘することができる。この出品を皮切りに小清水や吉田らもこの運動に参加していくのだが、彼らはみな多摩美術大学斎藤義重(よししげ)教室の門下生であった。彼らのなかでも李や菅は理論家としても優れ、現象学、存在論、場所論などに基づく主張は、彼らの活動の理論的な核を形成した。
一方、それとほぼ同時期、「芸大系」では榎倉が廃油やコールタールを用いた作品、高山が枕木を用いた作品、「日芸系」では原口が鉄板を用いた作品などを発表したが、彼らの作品で「もの」はメディウム(媒体)であると同時に主題ともなっており、その点で「もの」そのものを主題とすることがほとんどなかった「李+多摩美系」とは表現上の大きな差異があった。しかし反面、小清水以外の主要作家が絵画科出身者で占められていた「李+多摩美系」の活動は、絵画的視覚を通じて「もの」の在りようを追究しようとする共通点があった。そのために当初は「李+多摩美系」の風変わりな活動に対する蔑称(べっしょう)的なニュアンスが強かった「もの派」は、いつしかほぼ同時期に別々に展開されていた「芸大系」や「日芸系」の活動も包括し、より広範な美術運動の呼称として定着した。
「もの派」の評価をいち早く定着させた展覧会としては、1970年に旧東京都美術館で開催された「人間と物質」展(企画・監修中原佑介)が挙げられ、また1987年に西武美術館(後のセゾン美術館)で開催された「もの派とポストもの派の展開」展(企画・監修峯村敏明)では、戸谷成雄(とやしげお)、遠藤利克(としかつ)、川俣正(かわまたただし)といった次世代の作家たちが「ポストもの派」と位置づけられた。海外でも、サンテティエンヌ美術館(フランス)やテート・ギャラリーなどの展覧会を通じてミニマリズムの一翼を担う動向として紹介されたが、日本の戦後美術の代表的な動向であることは疑いない。
[暮沢剛巳]
『「モノ派」(カタログ。1986・鎌倉画廊)』▽『「もの派とポストもの派の展開」(カタログ。1987・西武美術館)』▽『「1970年――知覚と物質」(カタログ。1995・埼玉県立近代美術館)』