改訂新版 世界大百科事典 「川崎三菱神戸造船所争議」の意味・わかりやすい解説
川崎・三菱神戸造船所争議 (かわさきみつびしこうべぞうせんじょそうぎ)
1921年(大正10)6月25日から8月9日まで,神戸市にある川崎造船所3工場(本社,兵庫,葺合)と三菱3社(造船,内燃機,電機)の労働者約3万人が行った第2次大戦前の日本最大のストライキ。第1次大戦を契機にして,ロシア革命やILO結成などの国際情勢,米騒動やデモクラシー運動などの国内情勢の進展がみられ,それに刺激されて1919年後半にはかつてみない規模でストライキが続発し,労働組合の結成が相次いだ。当時最大の労働者団体であった友愛会(総同盟)も,同年8~9月の大会で従来の修養・親睦団体から脱皮して労働組合の総同盟となることを期する決議を行った。20年3月の戦後反動恐慌で労働組合陣営は守勢にたたされたが,21年には反撃に転じ,使用者に労働組合を認め,それと交渉関係に入ることを求める団結権・団体交渉権獲得闘争を展開した。この闘争は1920年後半から始まっていたが,21年4~8月,日本最大の工業地帯阪神地方において頂点に達した。阪神地方では,友愛会の活動が活発で,大阪,神戸,京都の3連合会を糾合した関西労働同盟会が結成されており,従来から統一闘争がなされていた。団体交渉権獲得闘争は関西では大阪地方から始まり,大阪電灯,藤永田造船所,住友大阪3社などで激しい闘争がなされたが,結局は組合加入の自由,工場委員制度の設置という条件で妥結した。この闘争を神戸の造船労働者が引き継ぐことになったが,相手の川崎(川崎財閥),三菱はともに当時の日本の代表的な巨大経営体であり,他方,神戸連合会は友愛会(総同盟)の最大拠点で,密接な共闘関係に結ばれた川崎・三菱両争議団はあわせて3万人以上を組織していたから,闘争は最大の山場となった。しかし要求は,前述の大阪での妥結条件を原則的にその内容としていたから,団体交渉権の獲得という本来の理念からすれば後退したものであった。川崎・三菱両造船所が要求書の受理を拒否して争議は深刻になり,工場内デモや応援団体を加えての市中デモなどが活発になされ,ついに川崎争議団は工場管理戦術の採用を宣言した。他方,会社はロックアウトを行い,県知事は,軍隊に出動を要請しつつ,争議団のデモ行進などを禁止した。争議が長期化すると,会社は工場再開を決め,切崩しにかかった。両争議団は,退勢挽回のため神社参拝の名目で示威行進を強行したが,不測の事態も伴って警官隊と激突,1人の労働者が死亡し,多数の指導者・活動家が逮捕された。争議団は,形勢不利とみて無条件就業を決め,8月9日惨敗宣言をだして解散した。この大争議の敗北によって,団体交渉権獲得闘争は交渉的労使関係をつくり出すことができないままに終わった。しかし使用者は,労働者の発言を無視できなくなり,工場委員制度を通して問題を処理することを余儀なくされた。以後,同制度設置と労働組合排除とが多くの大企業の労働運動対策となった。労働組合陣営は神戸では手痛い打撃を受けたが,全体的にみれば,労働諸団体の労働組合への再編成がこれらの闘争を通じてなされ,また組合活動家の階級意識が強まった。
→労使協議制
執筆者:池田 信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報