川崎財閥(読み)かわさきざいばつ

改訂新版 世界大百科事典 「川崎財閥」の意味・わかりやすい解説

川崎財閥 (かわさきざいばつ)

川崎財閥と称されるものには,川崎銀行を中心とするものと川崎造船所(のち川崎重工業。現,川崎造船)を中心とするものの二つがあるが,一般には前者をさす。

(1)川崎(金融)財閥 銀行,保険,信託を主とする東京の財閥。水戸藩の御用達金融業者であった川崎八右衛門は,1874年に東京で川崎組設立して官庁の為替業務を扱った。80年銀行条例の発布により川崎銀行となる。1906年に持株会社,定徳合資会社(資本金300万円)を設立し,千歳商会と共済会がこれを助けて傘下事業を統轄し,07年2代目八右衛門が後をついだ。川崎銀行は経営基盤が東京中心であったため,関東大震災の影響で業績が悪化し,27年の金融恐慌時に第百銀行と合併して川崎第百銀行と改称した。36年川崎貯蓄銀行,東京貯蔵銀行の2行を合併し,ふたたび第百銀行と改称,預金総額は全銀行中で第7位の大銀行となった。その傘下には常陽銀行,千葉合同銀行,明和銀行,足利銀行,鎌倉銀行があり,また保険・信託部門には,日華生命,福徳生命(1931年以後),日本火災,帝国火災,川崎信託,相生無尽があった。財閥の中枢は川崎家の姻戚関係者でしめられ,有能な人材を専門経営者として登用しなかった。第百銀行は戦時体制のために43年4月に三菱銀行に合併され,定徳会(定徳合資会社をうけて36年秋に設立された財閥本社。資本金500万円)は敗戦後財閥解体により49年1月に解散した。戦後,川崎系の生命保険会社は第百生命保険となり,火災保険会社は日本火災海上保険となった。相生無尽は41年大日本無尽と合併したが,48年日本無尽となり,その後日本相互銀行,太陽銀行をへて,太陽神戸銀行の一部になった。しかし中心企業がないため,これら旧川崎系企業の結びつきは弱い。

(2)川崎(造船)財閥 神戸に川崎造船所を創設した川崎正蔵の遺産をもとに1920年9月に正蔵の孫の武之助が設立した合資会社川崎総本店(資本金1000万円)を持株会社とする財閥。おもな支配企業は,川崎造船所,神戸川崎銀行,福徳生命,大福海上火災,神戸新聞,朝鮮農事部(全南農場,開成社農場)。27年の金融恐慌によって造船所をはじめとする傘下企業が大きな打撃をうけ,川崎財閥は実質的に崩壊した。その後の川崎家は朝鮮の農場や不動産の収入によって地方資産家として存続したが,川崎総本店は戦後,48年の財閥解体期に解散した。なお川崎造船所は39年に川崎重工業と社名を変更。現在,川崎重工業および同社から分離独立した川崎製鉄,川崎汽船の3社は,親睦会として〈睦(むつみ)会〉を結成,第一勧銀グループの一翼を担っている。なお2002年川崎重工業は船舶部門を分離,川崎造船(株)が設立されている。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「川崎財閥」の解説

川崎財閥
かわさきざいばつ

川崎八右衛門を創始者とする金融財閥。水戸藩為替御用達であった川崎は1874年(明治7)川崎組を設立,80年川崎銀行に改組した。ついで保険業に進出し,1910年日本火災保険を傘下に収め,14年(大正3)日華生命保険,22年国華徴兵保険を設立,31年(昭和6)には福徳生命保険を傘下に収めた。1927年には川崎信託も設立した。製造会社にはめぼしい企業がなかった。統轄機関として1906年川崎定徳(ていとく)合資会社を設立,36年株式会社定徳会に改組した。川崎銀行は合併を重ねて36年第百銀行となり,常陽銀行などを傘下においたが,第2次大戦時の合同政策で三菱銀行に合併された。49年財閥解体により定徳会は解散した。

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